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旅行・ツーリング
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北海道に上陸したのは1993年7月下旬だったが、同月上旬北海道南西沖地震(奥尻島津波)が起ったため、道内も路肩工事などで 度々渋滞に巻き込まれた。 しかも台風と併走してしまい晴れたのはこの一日のみ。

前年借物のFZ250で東名から東北道経由で青森まで行き、海峡線で函館に上陸。帰路、三陸海岸を戻ってきたことがあった。翌年この年フェリーを使って北海道に初上陸。静岡を午前4時に出て青森に夜9時に到着。翌日雨中を小樽まで行ってテントに一泊。3日目の昼、厚田村に着いた。
乗って行ったバイクはFX400R。長年の愛車は車検から戻ったばかりだったが、無理な改造が祟って道内でオーバーヒートを頻発。水道水を足しながら走っていたら途中ラジエター・キャップが吹き飛んだこともあった。

カーナビも無い時代に旺文社ツーリングマップが頼り。どんな所かも行ってみなければわからない。距離の積算にタコ糸を使っていた。ここ数年マイブームの聖地巡礼は文字通りの難業苦行の遍路歴程。度々バイクを停めて景色を眺めていた。日差しは強いが、風は心無しか内地より涼しい。
静岡から青森迄 約900km、道内約300kmくらい。厚田村(石狩市厚田区)の戸田記念墓地公園内で壮年婦人と思しき初老の御夫婦に頼んでシャッターを押してもらう。私のバイクのナンバーを見て 「おー静岡か!よく行ったっけなァ!」と云われた言葉が印象的…というか胸に突き刺さる。

背後の丘の上に戸田城聖先生の移築復元された生家が見える。偉人は何故か田舎の人が多い…というのが私感。交通の便も悪い戦前に、ここから東京までは どれくらい離れていたことだろう…などと想いを巡らせる。

前年借物のFZ250で東名から東北道経由で青森まで行き、海峡線で函館に上陸。帰路、三陸海岸を戻ってきたことがあった。翌年この年フェリーを使って北海道に初上陸。静岡を午前4時に出て青森に夜9時に到着。翌日雨中を小樽まで行ってテントに一泊。3日目の昼、厚田村に着いた。
乗って行ったバイクはFX400R。長年の愛車は車検から戻ったばかりだったが、無理な改造が祟って道内でオーバーヒートを頻発。水道水を足しながら走っていたら途中ラジエター・キャップが吹き飛んだこともあった。

カーナビも無い時代に旺文社ツーリングマップが頼り。どんな所かも行ってみなければわからない。距離の積算にタコ糸を使っていた。ここ数年マイブームの聖地巡礼は文字通りの難業苦行の遍路歴程。度々バイクを停めて景色を眺めていた。日差しは強いが、風は心無しか内地より涼しい。
静岡から青森迄 約900km、道内約300kmくらい。厚田村(石狩市厚田区)の戸田記念墓地公園内で壮年婦人と思しき初老の御夫婦に頼んでシャッターを押してもらう。私のバイクのナンバーを見て 「おー静岡か!よく行ったっけなァ!」と云われた言葉が印象的…というか胸に突き刺さる。

背後の丘の上に戸田城聖先生の移築復元された生家が見える。偉人は何故か田舎の人が多い…というのが私感。交通の便も悪い戦前に、ここから東京までは どれくらい離れていたことだろう…などと想いを巡らせる。
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新聞配達ギア
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ウェイトのセッティングを少々変更して深夜の国道52号線で試験走行。今まで平地ばかりで気付かなかったが、この4KNは登坂力が絶望的に貧弱。実験とはいえ後輪に無闇に太いタイヤを履かせたのが間違いの元。

UA03Jの車体に初期型4KNのエンジンを組み合わせ、クリアランスを取るため グランドアクシスのリアサスを入れた。ホイールを初期型BW's(3AA)のものに交換し、ズーマーのタイヤ(130/90-10)に変更。かなりハイギアになっているはず。ウェイトは、安物のローラーが2000km足らずで木端微塵になった後、純正(6.5kg)だった6個の内3個を 4.5kgに変更。ウェイトの平均は5.5kg になる。
国道52号線小河内から新東名ネオパーサ清水までは、中々の急勾配で街灯も無い。途中に幾つか分岐もあるが、標識も無い(有っても見えない)ので、道を間違えたら 密柑山から滑落という最悪の事態も想像する。

そーだ!夜中に来ればイイんだ!昼間だと家族連れや慰安旅行風の爺婆様でいっぱいのレストランスペースの一角にRC212Vが鎮座している。人気も疎らな此の時を見計らって… 穴の開くほど眺める。 SA内はおそらく最新の設備。防犯カメラに要注意。煙草と缶珈琲で One Night Carnival .

原付でサービスエリアに入ってやったぜぇ…(以下省略)。同じ事を考えている奴が他にも多数。ちょっとした(田舎の)デートスポット。 最近のクルマは騒音が少ないためSAのくせに虫の音が聞こえるほどの静寂。
肝心の、登坂性能については一応合格点。元々重量のあるバイクなので、ノーマルと同程度なら良かろう。タイヤを太くした恩恵である安定感は捨て難い。燃費もそれほど悪くなった感じはないのは幸い。

UA03Jの車体に初期型4KNのエンジンを組み合わせ、クリアランスを取るため グランドアクシスのリアサスを入れた。ホイールを初期型BW's(3AA)のものに交換し、ズーマーのタイヤ(130/90-10)に変更。かなりハイギアになっているはず。ウェイトは、安物のローラーが2000km足らずで木端微塵になった後、純正(6.5kg)だった6個の内3個を 4.5kgに変更。ウェイトの平均は5.5kg になる。
国道52号線小河内から新東名ネオパーサ清水までは、中々の急勾配で街灯も無い。途中に幾つか分岐もあるが、標識も無い(有っても見えない)ので、道を間違えたら 密柑山から滑落という最悪の事態も想像する。

そーだ!夜中に来ればイイんだ!昼間だと家族連れや慰安旅行風の爺婆様でいっぱいのレストランスペースの一角にRC212Vが鎮座している。人気も疎らな此の時を見計らって… 穴の開くほど眺める。 SA内はおそらく最新の設備。防犯カメラに要注意。煙草と缶珈琲で One Night Carnival .

原付でサービスエリアに入ってやったぜぇ…(以下省略)。同じ事を考えている奴が他にも多数。ちょっとした(田舎の)デートスポット。 最近のクルマは騒音が少ないためSAのくせに虫の音が聞こえるほどの静寂。
肝心の、登坂性能については一応合格点。元々重量のあるバイクなので、ノーマルと同程度なら良かろう。タイヤを太くした恩恵である安定感は捨て難い。燃費もそれほど悪くなった感じはないのは幸い。
新東名ネオパーサ清水に 国道52号線沿い ぷらっとパークから入ります。清水区小河内のミカン山の上で高級外車KTMの試乗会をやっているのは地元スペシャルとしては(違和感が有り過ぎ)カルチャーショックです。

クルマやバイクは日独伊三ヵ国最強の偏狭な私はKTMがどこの国のバイクかも知りませんでした。オーストリア製だそうです。それにしても最近の欧州車がやたらカッコ良く見えてしまうのは私だけでしょうか? これはデザイナー云々よりもコンセプトの確かさではないかと思います。
KTMは元々エンデューロなど競技車輌を得意とするメーカー。ここ数年はパリダカール・ラリーでも常勝。 こうしたモータースポーツは国民性等が違うと理解し難いため、TV中継が減ると知名度が下がります。
韓国やインドまでが世界市場を席捲しても、レース界では一日の長があります。 或いは技術の蓄積なのか、経験値かもしれません。KTMが参戦するのはスーパーバイククラス。V型は欧州勢が得意とするレイアウト。

KTM 1190 RC8Rって名前だそうです。平面が多くて痛バイが作り易そう…。ドゥカティ同様、排気量を年々上げても外装は同じ。気になるのはお値段ですが、198~207万は国産と比べても決して高くないと思います。
新型や新車に興味が無くなって久しい私でも心が動きましたDUKE200。国産に比べては同等でも質感や存在感が段違い。国産の現行が安っぽく見えます。値段は両車46~49万と 意識したかと思うほど同等!

KTMは80年代、トシ・ニシヤマが代理店だったころは、値段以上にスペックも超スパルタンで敷居の高いマシンでした。 エンデューロという当時まだ馴染の薄いジャンルのバイクに大枚を叩けなかったのもあったでしょう。KTMはいわゆるロードスポーツを作っていませんでした。
KTM代理店の方が親切に教えてくれます。我々庶民でも「乗れますよ」ということをアピール。だいたい外車ってシートが高くて跨ることもできませんでした。

このあたりは、戦後の復興期から乏しい工業力の中で永々と「大衆車」を造り続けてきた日本製のマネを欧米の伝統メーカーが始めたということでしょう。無論ブランド力はそのまま。KTMのロゴが 大きく誇らしげに見えるのも、日本車と違うところ。

クルマやバイクは日独伊三ヵ国最強の偏狭な私はKTMがどこの国のバイクかも知りませんでした。オーストリア製だそうです。それにしても最近の欧州車がやたらカッコ良く見えてしまうのは私だけでしょうか? これはデザイナー云々よりもコンセプトの確かさではないかと思います。
KTMは元々エンデューロなど競技車輌を得意とするメーカー。ここ数年はパリダカール・ラリーでも常勝。 こうしたモータースポーツは国民性等が違うと理解し難いため、TV中継が減ると知名度が下がります。
韓国やインドまでが世界市場を席捲しても、レース界では一日の長があります。 或いは技術の蓄積なのか、経験値かもしれません。KTMが参戦するのはスーパーバイククラス。V型は欧州勢が得意とするレイアウト。

KTM 1190 RC8Rって名前だそうです。平面が多くて痛バイが作り易そう…。ドゥカティ同様、排気量を年々上げても外装は同じ。気になるのはお値段ですが、198~207万は国産と比べても決して高くないと思います。
新型や新車に興味が無くなって久しい私でも心が動きましたDUKE200。国産に比べては同等でも質感や存在感が段違い。国産の現行が安っぽく見えます。値段は両車46~49万と 意識したかと思うほど同等!

KTMは80年代、トシ・ニシヤマが代理店だったころは、値段以上にスペックも超スパルタンで敷居の高いマシンでした。 エンデューロという当時まだ馴染の薄いジャンルのバイクに大枚を叩けなかったのもあったでしょう。KTMはいわゆるロードスポーツを作っていませんでした。
KTM代理店の方が親切に教えてくれます。我々庶民でも「乗れますよ」ということをアピール。だいたい外車ってシートが高くて跨ることもできませんでした。

このあたりは、戦後の復興期から乏しい工業力の中で永々と「大衆車」を造り続けてきた日本製のマネを欧米の伝統メーカーが始めたということでしょう。無論ブランド力はそのまま。KTMのロゴが 大きく誇らしげに見えるのも、日本車と違うところ。
テーマ:高速道路・SA・PAなど - ジャンル:車・バイク
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大学祭の時期はたいへんに忙しく、生来がぐうたらの私に取って、ある意味憂鬱な期間でした。それでも若かったからこなせたようなモノで イベントの類やパフォーマンスを要求される活動は苦手。先輩曰く「それも信心だ!」とか。

学会員というよりイスラム教徒に近いと云われていたのも否定できないところでした。組織はウザいと今でも思っています。でもそれが無かったら、私の様な狂信者は、何を為出かすかワカリません。”レール”があるから”反逆”があるのかもしれない。大学生という奴は常にそんな行動様式にこだわってました。
当時はまだ静大に行くと学生運動のOBらしき怪しげな人もいました。流石に時代錯誤な事は私にもわかりました。古株の教授の言葉を借りるなら「大学はレジャーランドではない!」と。確かに 当時の大学は ”ブランド ” であって学舎ではありませんでした。だから、何かしらの活動に勤しんでいたのかもしれません。因みにウチ(常葉大学)は 学生運動など全く無縁のノンポリ学生。

いわゆる絵画や工作は好きだったのだが、この学校には美術専修学科というレベルの高いプロ集団が居たため引いてしまった。私は外語科でした。それにしても、80年代安物カジュアル・ファッションがピンボケで良かった…。
学園祭の風景。静岡も文化祭などイベント華やかなりし頃。手馴れた感じですが、毎晩のように徹夜ができたのは、認めたくはない若さゆえの過ち。

デジカメは疎か、携帯電話すら(一般には)存在しなかった時代。写真はフィルムなので今より高価でした。現像は早くて一晩掛かりました。それ故こうした作業風景の撮影にはあまり使われず、残っているものは貴重です。ビデオカメラの機材は 二人掛で使います。VHSよりベータのほうが画質が落ちないと言われてました。カメラを構えているのが先輩。私は荷物係。

自主製作映画の撮影中。まだ8ミリが主流でした。 演じているのは女子部学生局の皆さん。名称は未だ学生局ですが、その勢力は女子部が圧倒的。大学に程近いアパートの先輩の部屋が いわゆる学生部の”拠点”でした。御厨子(仏壇)が写っています。創価学会の学生部(静岡第四部)の先輩。

深夜までアフレコ作業中。カセットテープの音声を乗せていく労作業が延々続きます。MDはまだありません。私達が在学中に 近所のレコード屋がCDショップに変りました。ブラウン管のテレビに ビデオデッキが載っています。役作りをする先輩。「暫し談話を到さん」 膝詰めの対話。叱咤激励。でも、関西と広島県人の会話は凄い。「わかっとンのか?折伏や!折伏やぞ!」

「学生の本分は勉学」とか云ってましたが、実際は「寝るのが戦い」というほど連日の徹夜。無論唱題も連日一時間以上。イベントに限らず、信心があるから体験があり、その体験を語ることが折伏になる。そういうものです。
年次が違いますが、他校から応援に来てくれた学生部静岡第四部の部員 さん達。常葉大学(四大・本学)もまだ新設校で浜松大学や富士常葉等はまだ無く、拠点は東海大海洋学部(三保)に程近い ”勇気塾”と 村松の旧清水文化会館、旧静岡文化(静岡平和会館)など 使わせてもらってました。

四者の分県体制と違って学生部の第四部は第一部を分割する形になっていました。静岡大学主体の第一部に対し、東海大学海洋学部や法経短大の他専門学校など雑多な面々。むしろ常葉大が弱小勢力だったりしましたが例年県制覇は当り前、この年は東海道方面も制覇。 男子部もライバルではありません。”創價學會”学生部 静岡第四部の皆さん、お元気ですか?

学会員というよりイスラム教徒に近いと云われていたのも否定できないところでした。組織はウザいと今でも思っています。でもそれが無かったら、私の様な狂信者は、何を為出かすかワカリません。”レール”があるから”反逆”があるのかもしれない。大学生という奴は常にそんな行動様式にこだわってました。
当時はまだ静大に行くと学生運動のOBらしき怪しげな人もいました。流石に時代錯誤な事は私にもわかりました。古株の教授の言葉を借りるなら「大学はレジャーランドではない!」と。確かに 当時の大学は ”ブランド ” であって学舎ではありませんでした。だから、何かしらの活動に勤しんでいたのかもしれません。因みにウチ(常葉大学)は 学生運動など全く無縁のノンポリ学生。

いわゆる絵画や工作は好きだったのだが、この学校には美術専修学科というレベルの高いプロ集団が居たため引いてしまった。私は外語科でした。それにしても、80年代安物カジュアル・ファッションがピンボケで良かった…。
学園祭の風景。静岡も文化祭などイベント華やかなりし頃。手馴れた感じですが、毎晩のように徹夜ができたのは、認めたくはない若さゆえの過ち。

デジカメは疎か、携帯電話すら(一般には)存在しなかった時代。写真はフィルムなので今より高価でした。現像は早くて一晩掛かりました。それ故こうした作業風景の撮影にはあまり使われず、残っているものは貴重です。ビデオカメラの機材は 二人掛で使います。VHSよりベータのほうが画質が落ちないと言われてました。カメラを構えているのが先輩。私は荷物係。

自主製作映画の撮影中。まだ8ミリが主流でした。 演じているのは女子部学生局の皆さん。名称は未だ学生局ですが、その勢力は女子部が圧倒的。大学に程近いアパートの先輩の部屋が いわゆる学生部の”拠点”でした。御厨子(仏壇)が写っています。創価学会の学生部(静岡第四部)の先輩。

深夜までアフレコ作業中。カセットテープの音声を乗せていく労作業が延々続きます。MDはまだありません。私達が在学中に 近所のレコード屋がCDショップに変りました。ブラウン管のテレビに ビデオデッキが載っています。役作りをする先輩。「暫し談話を到さん」 膝詰めの対話。叱咤激励。でも、関西と広島県人の会話は凄い。「わかっとンのか?折伏や!折伏やぞ!」

「学生の本分は勉学」とか云ってましたが、実際は「寝るのが戦い」というほど連日の徹夜。無論唱題も連日一時間以上。イベントに限らず、信心があるから体験があり、その体験を語ることが折伏になる。そういうものです。
年次が違いますが、他校から応援に来てくれた学生部静岡第四部の部員 さん達。常葉大学(四大・本学)もまだ新設校で浜松大学や富士常葉等はまだ無く、拠点は東海大海洋学部(三保)に程近い ”勇気塾”と 村松の旧清水文化会館、旧静岡文化(静岡平和会館)など 使わせてもらってました。

四者の分県体制と違って学生部の第四部は第一部を分割する形になっていました。静岡大学主体の第一部に対し、東海大学海洋学部や法経短大の他専門学校など雑多な面々。むしろ常葉大が弱小勢力だったりしましたが例年県制覇は当り前、この年は東海道方面も制覇。 男子部もライバルではありません。”創價學會”学生部 静岡第四部の皆さん、お元気ですか?