Category :
NEWS
tag :
tag :
「なぜ山に登るのか」 「そこに山があるからだ」 ―長編詩「青年よ 21世紀の広布の山を登れ」発表から35年。9月度本幹で三度この「反転攻勢」の譜が読み上げられました。同詩は先生が「断じて忘るな」と叫ばれた「会長勇退」(1979年)4・24から2年後 全学会員就中青年に宛て託されました。

奇しくも此の会長勇退の年は熱原法難から700年に当たります。双方とも折伏を妬む内外の輩が結託して起こされた法難。御書 「聖人御難事」にも著された大聖人の「出生の本懐」たる 「一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊」(注:会則教義条項は修整)御図顕に至る宗史は 正にこの時期に此の地で刻まれていました。また既に無関係と云われましても「夏季講習会」や「本山担当」に通った昔の創価班には(秘かに)懐かしい場所でもあります。
私自身この長編詩が出された1981年時には入信しておらず子供だったので覚えていません。その当時この地は 「富士桜自然墓地公園」造成を巡って山崎正友と地元「日原造園」が暗躍。富士宮市「百条委員会問題」にまで発展する渦中にありました。その中でも学会は池田先生の御構想でもある「生命の尊厳」を訴える 広範囲な「文化・芸術・教育…」運動を前面に押し出し国家民族や宗派さえ越えた今日の大発展の礎を築きました。

同詩 加筆版が発表されたのは1999年5月。余談ではありますが「そこに山があるからだ」の名言を残したとされる戦前の著名な登山家でエベレスト登頂中に行方不明となったジョージ・マロリーの遺体が(-ほぼ同日)75年振りに発見され世界を驚かせました。私自身この時は清水区(当時の清水市)内に巣食った 「嫉妬に狂った反逆者」達との戦いの渦中で この長編詩を拝読。自らの正義を確信すると共に時に合わせ「師弟共戦」を体現できたことに感動を覚えました。その反逆者等は二ヶ月後の7月(青年の月)木端微塵に粉砕され集団退転。応援に駆け付けた外部の会友さん達から「ノストラダムスの予言の的中!」と 痛快な大勝利に大絶賛を戴いたものでした。

本年は第二次宗門問題に端を発する「魂の独立」から25周年。かつては宗門大石寺と蜜月にあり 今だ多数の獅子身中の蟲が蠢く静岡で「広布模範」を示していくために言論戦・情報戦の連続勝利は不可欠。そのためには地道な対話と共に情報媒体の勝利も必然。一眼レフに24枚撮りフィルムを入れ大事に使った頃と違い画像・映像は子供にでも写せる時代。低俗な噂話や虚勢が飛び交う中 理想を背負って立つ者が負けるわけにはいきません。

前置きが長くなりましたが私も「もっと上手く写真が撮れるようになりたい!」との思いで 「自然との対話」写真展を鑑賞してきました。評論は他にお任せするとして自分が上達するためにも先ず「良作に触れる」ことからだと思います。新・人間革命15巻「開花」の章で先生は以下のように語っておられます。
「シャッターを押す瞬間に、撮影者の心のすべてが凝縮される。眼前にある被写体から、何を外し、何を画面に取り入れるのかというなかに、撮影者の知識や教養、人生観までもが集約される――それが、三木淳(報道写真家)の写真観であった。 伸一も、全く同感であった。 写真は撮影者の心の投影であり、被写体を借りて写し出された、自身の生命の姿といってよい。」
ともすれば単調で静的になりがちな風景写真等にあって普通 写真からは得られない動的な躍動感―例えば暑さ寒さや風や空気の動きや音までが伝わる―または無機質な風景や人工物の中にあって人の営みが感じられるような写真。そのためには撮影者の生命がより良い状態に研ぎ澄まされていなければならない…などと一人考えながら帰路シャッターを押します。

お誂え向きに虹が掛かっていました。虹は吉兆です。この日は数日来の小雨続きでやや蒸し暑い曇天。それにもめげず此処まで来れたことへの諸天の祝福と受け取っておきましょう。虹は驚いたことに 二重に空を跨いでいました。まさに曇を貫く弓矢。振り返ると切り裂かれた雲間に鮮やかな夕焼け。

私如き殺伐とした娑婆に生きる凡人にも詩心の欠片が奥底にあるのではないかと思う瞬間でした。映画 「君の名は。」の新海誠監督も「思春期の困難な時期に、風景の美しさに自分自身を救われ 励まされてきたので、そういう感覚を映画に込められたら、という気持ちはずっと一貫して持っている」と語っておられます。自分の思い出としての写真から 他人をも和ませる映像へ。やはり「利他」の精神が良作を生み出す原点と肝に命じ私も日々精進したく思います。

奇しくも此の会長勇退の年は熱原法難から700年に当たります。双方とも折伏を妬む内外の輩が結託して起こされた法難。御書 「聖人御難事」にも著された大聖人の「出生の本懐」たる 「一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊」(注:会則教義条項は修整)御図顕に至る宗史は 正にこの時期に此の地で刻まれていました。また既に無関係と云われましても「夏季講習会」や「本山担当」に通った昔の創価班には(秘かに)懐かしい場所でもあります。
私自身この長編詩が出された1981年時には入信しておらず子供だったので覚えていません。その当時この地は 「富士桜自然墓地公園」造成を巡って山崎正友と地元「日原造園」が暗躍。富士宮市「百条委員会問題」にまで発展する渦中にありました。その中でも学会は池田先生の御構想でもある「生命の尊厳」を訴える 広範囲な「文化・芸術・教育…」運動を前面に押し出し国家民族や宗派さえ越えた今日の大発展の礎を築きました。

同詩 加筆版が発表されたのは1999年5月。余談ではありますが「そこに山があるからだ」の名言を残したとされる戦前の著名な登山家でエベレスト登頂中に行方不明となったジョージ・マロリーの遺体が(-ほぼ同日)75年振りに発見され世界を驚かせました。私自身この時は清水区(当時の清水市)内に巣食った 「嫉妬に狂った反逆者」達との戦いの渦中で この長編詩を拝読。自らの正義を確信すると共に時に合わせ「師弟共戦」を体現できたことに感動を覚えました。その反逆者等は二ヶ月後の7月(青年の月)木端微塵に粉砕され集団退転。応援に駆け付けた外部の会友さん達から「ノストラダムスの予言の的中!」と 痛快な大勝利に大絶賛を戴いたものでした。

本年は第二次宗門問題に端を発する「魂の独立」から25周年。かつては宗門大石寺と蜜月にあり 今だ多数の獅子身中の蟲が蠢く静岡で「広布模範」を示していくために言論戦・情報戦の連続勝利は不可欠。そのためには地道な対話と共に情報媒体の勝利も必然。一眼レフに24枚撮りフィルムを入れ大事に使った頃と違い画像・映像は子供にでも写せる時代。低俗な噂話や虚勢が飛び交う中 理想を背負って立つ者が負けるわけにはいきません。

前置きが長くなりましたが私も「もっと上手く写真が撮れるようになりたい!」との思いで 「自然との対話」写真展を鑑賞してきました。評論は他にお任せするとして自分が上達するためにも先ず「良作に触れる」ことからだと思います。新・人間革命15巻「開花」の章で先生は以下のように語っておられます。
「シャッターを押す瞬間に、撮影者の心のすべてが凝縮される。眼前にある被写体から、何を外し、何を画面に取り入れるのかというなかに、撮影者の知識や教養、人生観までもが集約される――それが、三木淳(報道写真家)の写真観であった。 伸一も、全く同感であった。 写真は撮影者の心の投影であり、被写体を借りて写し出された、自身の生命の姿といってよい。」
ともすれば単調で静的になりがちな風景写真等にあって普通 写真からは得られない動的な躍動感―例えば暑さ寒さや風や空気の動きや音までが伝わる―または無機質な風景や人工物の中にあって人の営みが感じられるような写真。そのためには撮影者の生命がより良い状態に研ぎ澄まされていなければならない…などと一人考えながら帰路シャッターを押します。

お誂え向きに虹が掛かっていました。虹は吉兆です。この日は数日来の小雨続きでやや蒸し暑い曇天。それにもめげず此処まで来れたことへの諸天の祝福と受け取っておきましょう。虹は驚いたことに 二重に空を跨いでいました。まさに曇を貫く弓矢。振り返ると切り裂かれた雲間に鮮やかな夕焼け。

私如き殺伐とした娑婆に生きる凡人にも詩心の欠片が奥底にあるのではないかと思う瞬間でした。映画 「君の名は。」の新海誠監督も「思春期の困難な時期に、風景の美しさに自分自身を救われ 励まされてきたので、そういう感覚を映画に込められたら、という気持ちはずっと一貫して持っている」と語っておられます。自分の思い出としての写真から 他人をも和ませる映像へ。やはり「利他」の精神が良作を生み出す原点と肝に命じ私も日々精進したく思います。
Category :
イベント
tag :
tag :
当らない天気予報が見事にハズれて超晴天。死ぬほど暑い ! おかげで日焼けが痛い。場所は新城市湯谷温泉 蓬来山パークウェイ駐車場。目の前を飯田線が走っていたり渓谷や旅館がキレイだったり毎度のことながら良い場所選んでくれます。GK71Bクラブさん自体のイベントは前夜祭を含む一泊二日のロングラン。

ばくおん!!のおかげでスズキ追い風。…でも GSX‐Rやガンマのような当時の売れ筋は あまり出てきません。まあイイか…オモシロければ。この主催様はゲストには(我々KROGのような…)弱小チームや個人にも寛大ですがキャスト側は複数チームを束ねているにも関わらず 車種やカラーリングがビシッ!!と揃ってしかも程度極上。改造も過度ではないがレアな当時物パーツやチューンがシッカリ入ってる。初心者ってこういうのに憧れるものです。

あぁヨカった!KRがいてくれて!先発で揚陸した(私を含め)3名がKRでないばかりかスズキ・ホンダ・ヤマハと尽く他社バイクで乗り込んで来たからだ。因みに意外と違和感ないのが画面右端のKROG会長GSX‐R1000。スズキ標準カラーで見事に化けている。この白赤KRは名古屋在住KANERU‐S氏が元々所有していた車体に旧KROG会長号の外装を載せた究極合体仕様。

個人的に大好きだったGK71Fの異径一灯から再びデュアルに戻った88年頃のGK73A型。初期GSX‐Rのアイデンティティーを確立した時期でもありました。750はボア×ストロークをイジッてみたりスズキとヨシムラの苦悩や執念も伺われました。ユーザーやマスコミの賛否両論まで全てが伝説となっています。

いわゆる「辻本カラー」またはヨシムラ・トルネード風。2000年以降はスズキが純正マフラーに凝り過ぎたせいかヨシムラ需要が減って残念。当時流行った露骨なスポンサーコラボも今となっては貴重なアイコンでわかりやすい。

1984年ケルンで公開されたプロトタイプのHB(ハーベィ)カラーが印象的でしたが実は750クラスのHB仕様はありません。まだ750は大柄なツアラーのイメージで400のほうが憧れでした。ふたり鷹やバリ伝でも F‐3仕様が活躍します。

ウォルター・ウルフを初めて知ったのはタミヤのプラモデル,ウルフWR‐1が先でした。原付スクーター ”Hi” ウォルターウルフ・バージョンは乗っていたこともありました。ガンマは250Ⅲ型~と400/500にラインナップされ特にRG50Γは悔しいほどカッコ良く原付免許ライダーの憧れ。 この日最多の台数を記録したそう。

1986年頃ヤマハが確実にホンダを押えた時期があった。当時のトレンド2灯レーサーレプリカの発売が遅れ VFRやフルカバードCBRで対抗しようとしたホンダに対しヤマハは映画「汚れた英雄」と平忠彦の人気に肖るイメージ戦略が功を奏し平レプリカが峠を席巻。それでもマフラー変えるならSP忠男。

ツキギ・アレーテベルベか?等と仲間内で論争になったZX‐4。この時期の機種は今では信じられないほどモデルスパンが短くGPX400Rから大幅モデルチェンジのZX‐4は 僅か一年でZXR400に取って代わられます。更に翌89年ゼファー登場でネイキッドブーム。新型車攻勢はユーザーの想像さえ超えていました。

懐しいぃ!我が初めての原付スクーター、ホンダ・ビート!初めての腰上O/Hやマフラー焼きなどずいぶん勉強させてもらいました。空冷にコダワリ続けた初期型CBR400FやレジェンドRC30まで。昔のホンダってコスト度外視のハイメカを惜しげもなく投入して 若者が「乗りたくなる」オートバイを作ってくれました。

83~86年頃の年式ながら恐ろしくオリジナルを保ったRH250。オフロードのガンマなどと名打たれてしまったためスズキ流の超過激マシンと思いきや意外と穏やかなトルク型で燃費もイイらしい。こういうスペックの意外性もスズキらしい。
「みんなー、これからも最高のメーカー、スズキを選べー!!スズキを買えー!」

ばくおん!!のおかげでスズキ追い風。…でも GSX‐Rやガンマのような当時の売れ筋は あまり出てきません。まあイイか…オモシロければ。この主催様はゲストには(我々KROGのような…)弱小チームや個人にも寛大ですがキャスト側は複数チームを束ねているにも関わらず 車種やカラーリングがビシッ!!と揃ってしかも程度極上。改造も過度ではないがレアな当時物パーツやチューンがシッカリ入ってる。初心者ってこういうのに憧れるものです。

あぁヨカった!KRがいてくれて!先発で揚陸した(私を含め)3名がKRでないばかりかスズキ・ホンダ・ヤマハと尽く他社バイクで乗り込んで来たからだ。因みに意外と違和感ないのが画面右端のKROG会長GSX‐R1000。スズキ標準カラーで見事に化けている。この白赤KRは名古屋在住KANERU‐S氏が元々所有していた車体に旧KROG会長号の外装を載せた究極合体仕様。

個人的に大好きだったGK71Fの異径一灯から再びデュアルに戻った88年頃のGK73A型。初期GSX‐Rのアイデンティティーを確立した時期でもありました。750はボア×ストロークをイジッてみたりスズキとヨシムラの苦悩や執念も伺われました。ユーザーやマスコミの賛否両論まで全てが伝説となっています。

いわゆる「辻本カラー」またはヨシムラ・トルネード風。2000年以降はスズキが純正マフラーに凝り過ぎたせいかヨシムラ需要が減って残念。当時流行った露骨なスポンサーコラボも今となっては貴重なアイコンでわかりやすい。

1984年ケルンで公開されたプロトタイプのHB(ハーベィ)カラーが印象的でしたが実は750クラスのHB仕様はありません。まだ750は大柄なツアラーのイメージで400のほうが憧れでした。ふたり鷹やバリ伝でも F‐3仕様が活躍します。

ウォルター・ウルフを初めて知ったのはタミヤのプラモデル,ウルフWR‐1が先でした。原付スクーター ”Hi” ウォルターウルフ・バージョンは乗っていたこともありました。ガンマは250Ⅲ型~と400/500にラインナップされ特にRG50Γは悔しいほどカッコ良く原付免許ライダーの憧れ。 この日最多の台数を記録したそう。

1986年頃ヤマハが確実にホンダを押えた時期があった。当時のトレンド2灯レーサーレプリカの発売が遅れ VFRやフルカバードCBRで対抗しようとしたホンダに対しヤマハは映画「汚れた英雄」と平忠彦の人気に肖るイメージ戦略が功を奏し平レプリカが峠を席巻。それでもマフラー変えるならSP忠男。

ツキギ・アレーテベルベか?等と仲間内で論争になったZX‐4。この時期の機種は今では信じられないほどモデルスパンが短くGPX400Rから大幅モデルチェンジのZX‐4は 僅か一年でZXR400に取って代わられます。更に翌89年ゼファー登場でネイキッドブーム。新型車攻勢はユーザーの想像さえ超えていました。

懐しいぃ!我が初めての原付スクーター、ホンダ・ビート!初めての腰上O/Hやマフラー焼きなどずいぶん勉強させてもらいました。空冷にコダワリ続けた初期型CBR400FやレジェンドRC30まで。昔のホンダってコスト度外視のハイメカを惜しげもなく投入して 若者が「乗りたくなる」オートバイを作ってくれました。

83~86年頃の年式ながら恐ろしくオリジナルを保ったRH250。オフロードのガンマなどと名打たれてしまったためスズキ流の超過激マシンと思いきや意外と穏やかなトルク型で燃費もイイらしい。こういうスペックの意外性もスズキらしい。
「みんなー、これからも最高のメーカー、スズキを選べー!!スズキを買えー!」