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オートバイ
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このペリカンジョグは以前バイトをした清水区内の某輸出業者を退職する時2台(27Vジョグ・チャンプ80)他を8000円で購入しヤード内で一週間ほど掛けて作ったマシン。チャンプ80はデビュー当時(1986年7月)から大好きだった一人乗り二種スクーターだが、前3.00/8・後ろ2.75/10という今では考えられないマニアックなタイヤサイズで乗り難いため、27Vジョグの車体に乗せ換えたもの。

この画像も無断でさんざんパクられ転載されまくっているがヤフオク出展用に私が撮ったものが正真正銘オリジナル。チャンプRS(2NA)のマフラーが大げさなわりに27Vのフロントがショボいが、ステム移植のための分解に失敗してディスクブレーキが付けられなかったためこんな仕様になっている。27Vのフロントブレーキシューはパッソルと共通で確かに利かないが、車体が軽いため半ばロックさせて止まれば、さほど不安は感じない。ただフロントホイールのリム幅はかなり狭く3.00/10チューブレスタイヤがリムから外れたことがあった。チャンプRSのフロントを流用してディスクブレーキ化したら、マスターシリンダーの場所を確保するためカウル加工が必要になるが、時間がなくボルトオン部品だけでシェイクダウン。
ここまでなら電装系を含めほぼポン付けでできる。27Vは前述の通り軽量で構造も単純。車体のバランスも良い。また縦型エンジンと駆動系は堅牢で、初期型はプーリーにゴム製の可動部カバーまで付いている。後に重量車にも搭載された名機でもある。3KJ以降はメットインスペースの都合で横型エンジンが主力となる。こんなモノを作ってしまうとツーリングに行きたくなるのが人情…。

季節も良かったので日本海を見に行った。道の駅「能生」付近。新潟県糸魚川市の海沿いでかなり暑い。いちおうチャンバーにアルミ製カバーも付けた。8月の暑い時期に一眼レフに激安の期限切れフィルムを装填したため、焼けがヒドイ写真。27Vの唯一の弱点が2ℓ弱しか入らない燃料タンク。そのため荷台に積んでいるのは増槽と称する携行缶だが無論これは違法。実際には深夜ガススタを見かけるたびにチビチビ給油していたので無しでも問題は無かった。ヘッドライトは小さいが深夜の地方道でも光量に不満はなかったと思う。失業中の夏の思い出。

この画像も無断でさんざんパクられ転載されまくっているがヤフオク出展用に私が撮ったものが正真正銘オリジナル。チャンプRS(2NA)のマフラーが大げさなわりに27Vのフロントがショボいが、ステム移植のための分解に失敗してディスクブレーキが付けられなかったためこんな仕様になっている。27Vのフロントブレーキシューはパッソルと共通で確かに利かないが、車体が軽いため半ばロックさせて止まれば、さほど不安は感じない。ただフロントホイールのリム幅はかなり狭く3.00/10チューブレスタイヤがリムから外れたことがあった。チャンプRSのフロントを流用してディスクブレーキ化したら、マスターシリンダーの場所を確保するためカウル加工が必要になるが、時間がなくボルトオン部品だけでシェイクダウン。
ここまでなら電装系を含めほぼポン付けでできる。27Vは前述の通り軽量で構造も単純。車体のバランスも良い。また縦型エンジンと駆動系は堅牢で、初期型はプーリーにゴム製の可動部カバーまで付いている。後に重量車にも搭載された名機でもある。3KJ以降はメットインスペースの都合で横型エンジンが主力となる。こんなモノを作ってしまうとツーリングに行きたくなるのが人情…。

季節も良かったので日本海を見に行った。道の駅「能生」付近。新潟県糸魚川市の海沿いでかなり暑い。いちおうチャンバーにアルミ製カバーも付けた。8月の暑い時期に一眼レフに激安の期限切れフィルムを装填したため、焼けがヒドイ写真。27Vの唯一の弱点が2ℓ弱しか入らない燃料タンク。そのため荷台に積んでいるのは増槽と称する携行缶だが無論これは違法。実際には深夜ガススタを見かけるたびにチビチビ給油していたので無しでも問題は無かった。ヘッドライトは小さいが深夜の地方道でも光量に不満はなかったと思う。失業中の夏の思い出。
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旅行・ツーリング
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今年2020年11月には東名(新東名)~中央道間の全線が開通する予定だった中部横断自動車道は再度延期となり2021年(令和3年)夏頃までズレ込む予想となった。前回は地盤改良のためだったが今回は自然由来の重金属が掘出してしまいその処理に時間を要すという。地質的に非常な難工事になっている模様だ。

地質学的には糸魚川静岡構造線と並行する大地溝帯上にある富士川を跨ぐルート。東側に富士山、西側に南アルプス。その谷間を走る富士川中程にある巨石や岩盤壁を見れば昔から交通の要衝であったのに街道の整備が遅れている理由がわかる。地球規模の大規模な褶曲から変成岩が形成され土壌を複雑化。更にこの一帯を硬い岩盤の上に乗せ一見弱そうで実は安定した地盤を作っている。

建設中の身延山インターチェンジはJR身延駅と同じ富士川東岸。これに対し国道52号線と日蓮宗総本山の身延山久遠寺は富士川西岸に位置する。この中で最も古いのは身延山久遠寺でその立地は風水学上の寺社のあるべき条件に従って建立され国道52号線は過去には駿州往還と呼ばれその参道にも当る。

一方西岸のJR身延線は富士川舟運に並行して下部温泉や身延山に旅客の他セメントや採石を運ぶ貨物として運行を開始。中部横断道の南部~下部早川間も険しい身延山系を避けるように県道(静岡山梨共用)10号線と共に北進。インター出口の案内は少々わかりにくいが右が北で山梨方面。左が南で静岡方面となる。

身延山icからJR身延駅まで1km弱。身延山久遠寺までは更に5kmほどある。山間地のため余計に距離を感じるが離れている理由は以上の通り。その間は市街地で山間地の割に栄えているように見える。そのぶん観光地然といた地域は少なく寄る所に迷う。身延線も観光より通勤通学の脚に見えるのはそのためだ。

地質学的には糸魚川静岡構造線と並行する大地溝帯上にある富士川を跨ぐルート。東側に富士山、西側に南アルプス。その谷間を走る富士川中程にある巨石や岩盤壁を見れば昔から交通の要衝であったのに街道の整備が遅れている理由がわかる。地球規模の大規模な褶曲から変成岩が形成され土壌を複雑化。更にこの一帯を硬い岩盤の上に乗せ一見弱そうで実は安定した地盤を作っている。

建設中の身延山インターチェンジはJR身延駅と同じ富士川東岸。これに対し国道52号線と日蓮宗総本山の身延山久遠寺は富士川西岸に位置する。この中で最も古いのは身延山久遠寺でその立地は風水学上の寺社のあるべき条件に従って建立され国道52号線は過去には駿州往還と呼ばれその参道にも当る。

一方西岸のJR身延線は富士川舟運に並行して下部温泉や身延山に旅客の他セメントや採石を運ぶ貨物として運行を開始。中部横断道の南部~下部早川間も険しい身延山系を避けるように県道(静岡山梨共用)10号線と共に北進。インター出口の案内は少々わかりにくいが右が北で山梨方面。左が南で静岡方面となる。

身延山icからJR身延駅まで1km弱。身延山久遠寺までは更に5kmほどある。山間地のため余計に距離を感じるが離れている理由は以上の通り。その間は市街地で山間地の割に栄えているように見える。そのぶん観光地然といた地域は少なく寄る所に迷う。身延線も観光より通勤通学の脚に見えるのはそのためだ。
テーマ:高速道路・SA・PAなど - ジャンル:車・バイク
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旅行・ツーリング
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この辺りは私の生家に近く子供の頃よく遊んでいた所ではあるのだが この小島陣屋跡というのは覚えていない。そういう史跡があるのは聞いていたがこんな広場があったのかが記憶にない。というのもその頃たぶんここはミカン畑で遺跡も城郭もお構いなしに蜜柑の木が植えられていたのではないかと思う。

周囲の山々もほとんど蜜柑山だったはずだが逆によくここまで自然林に戻してくれたと思う。ミカン農家が繁盛している頃この付近の山々には架線(かせん)という収穫したミカンの入ったコンテナを山から下ろすための小型ケーブルが張り巡らされ空はワイヤーだらけ。農道の舗装はアスファルトではなくコンクリートで農家のトラックがそこらじゅうに路駐。ヘタな所で遊んでいたら農家に怒られた。

見ての通り陣屋跡は興津川や甲州街道を見下ろす高台にある。交通の要衝を監視や警護する支城らしい立地は柑橘栽培にも向いていたわけだ。農地が拡がって旧跡を飲み込んでしまった所を農業が廃れたことで再び現れたことになる。

だが歴史ロマンだけでは生活の糧にならない。だから何もかも昔のまま保存するのが善しとは思わない。他の用途や利便性等のため取り壊しや移築が必要になることもあるかもしれない。幸いこの史跡は父方の墓のある龍津寺の裏手にある。神社仏閣は敷地の管理者等の関係から簡単には動かせないのは幸い。

周囲の山々もほとんど蜜柑山だったはずだが逆によくここまで自然林に戻してくれたと思う。ミカン農家が繁盛している頃この付近の山々には架線(かせん)という収穫したミカンの入ったコンテナを山から下ろすための小型ケーブルが張り巡らされ空はワイヤーだらけ。農道の舗装はアスファルトではなくコンクリートで農家のトラックがそこらじゅうに路駐。ヘタな所で遊んでいたら農家に怒られた。

見ての通り陣屋跡は興津川や甲州街道を見下ろす高台にある。交通の要衝を監視や警護する支城らしい立地は柑橘栽培にも向いていたわけだ。農地が拡がって旧跡を飲み込んでしまった所を農業が廃れたことで再び現れたことになる。

だが歴史ロマンだけでは生活の糧にならない。だから何もかも昔のまま保存するのが善しとは思わない。他の用途や利便性等のため取り壊しや移築が必要になることもあるかもしれない。幸いこの史跡は父方の墓のある龍津寺の裏手にある。神社仏閣は敷地の管理者等の関係から簡単には動かせないのは幸い。
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アニメ・特撮・映画
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シリーズ構成・脚本にRe:ゼロの長月達平先生で製作がA-1 Picturesという申し分のない布陣。だが架空戦記モノは異世界のような王道にはなり得ないので 逆に製作がヤリたい放題やってくれる時もあり 好きな人はよりディープに楽しめる。

この設定だけで滾るものがある。館山基地は関東大震災で隆起した浅瀬を埋め立てて作られた旧海軍基地で本土決戦用に作られた掩体壕など戦跡が多数現存する歴史的にも価値のある施設。現在は海自救難隊のヘリ専用基地のため滑走路は1000mクラス。これをF-15Jが離着陸できるよう海側にほぼ倍くらいに延長。また旧海軍時代から水上機の接岸や揚陸も可能な設定上かなり万能な基地。古の“Gメン75”OPはこの館山基地の滑走路でロケという歴史秘話もある。
乗機もマニアックというよりメジャーな機種ではゲーム等で既に出回っているため凝っている。知名度や認知度が下がればネットにありがちな“知ったか”の揚げ足取りが防げる。ということは流行らなくても好きな話ができる一石二鳥。

少なくとも私はエアフィックスのプラモで知った機体の一つグロスター・グラディエーターが主人公の愛機。固定脚の複葉機なのに風防を装備する過渡期の英軍機。デビュー時には既にホーカー・ハリケーンが量産体制にあり補助的な存在になっていた。それでもマルタ島に配備されたグラディエーターはイタリア軍爆撃機を要撃し戦果を上げる。また艦載型シーグラディエーターはその後も哨戒機等として運用され続けた。こうした旧型の活躍の場が英軍らしい戦記。

中島の一式戦「隼」四式戦「疾風」に比べ操縦性にクセがあり前線では不評だった二式戦「鍾馗」。もともと隼の補完的な機体だったが設計者の糸川博士は傑作機と称している。確かに外国機との比較試験では優秀な成績を収め 戦後の米軍の評価は高かった。外地でもベテラン操縦士の部隊では一定の戦果をあげている。四式戦が量産されると生産が終わりそのためか実機が一機も現存しない。

ハインケルHE100D-1はメッサーシュミットBf109の競作に敗れたHe112の発展改良型である。D-0型が試作型でD-1型は量産準備型とか増加試作型に相当する。高性能機を作りながらハインケルが度々不採用になるのはエルンスト・ハインケル博士の政治的確執とも言われるが技術的に凝った構造で実戦運用上懸念される機体も多くこのHE100D-1もその一つ。ただこれらの論争は戦争後半になると一笑に付されルフトバッフェもハインケルに泣き付く機会が増え始める。

アエルマッキ M.C.72はシュナイダーカップでカーチスR3C-2からタイトルを奪い返したマッキM.39の後継機となるレース専用機。カーチスR3C-2は紅の豚のミッキー・カーチス、マッキM.39はポルコ・ロッソの同僚フェラーリン少佐の乗機モデルとなった。マッキ M.C.72が1934年に打ち立てた平均速度709km/h(440mph)の速度記録は水上機(フロート付き航空機)としては現在に到っても破られていない。
と…いう歴史秘話は同人ネタとしては申し分なかったが例のコロナというより五輪のせいでコミケは事実上丸一年以上も先に飛ばされてしまった。この「戦翼のシグルドリーヴァ」の放送時期も同じ理由でズレてしまったことは不運というだけでは溢しきれない。来年の冬まで精々書き溜めて「薄くない本」を作ってやろう。

この設定だけで滾るものがある。館山基地は関東大震災で隆起した浅瀬を埋め立てて作られた旧海軍基地で本土決戦用に作られた掩体壕など戦跡が多数現存する歴史的にも価値のある施設。現在は海自救難隊のヘリ専用基地のため滑走路は1000mクラス。これをF-15Jが離着陸できるよう海側にほぼ倍くらいに延長。また旧海軍時代から水上機の接岸や揚陸も可能な設定上かなり万能な基地。古の“Gメン75”OPはこの館山基地の滑走路でロケという歴史秘話もある。
乗機もマニアックというよりメジャーな機種ではゲーム等で既に出回っているため凝っている。知名度や認知度が下がればネットにありがちな“知ったか”の揚げ足取りが防げる。ということは流行らなくても好きな話ができる一石二鳥。

少なくとも私はエアフィックスのプラモで知った機体の一つグロスター・グラディエーターが主人公の愛機。固定脚の複葉機なのに風防を装備する過渡期の英軍機。デビュー時には既にホーカー・ハリケーンが量産体制にあり補助的な存在になっていた。それでもマルタ島に配備されたグラディエーターはイタリア軍爆撃機を要撃し戦果を上げる。また艦載型シーグラディエーターはその後も哨戒機等として運用され続けた。こうした旧型の活躍の場が英軍らしい戦記。

中島の一式戦「隼」四式戦「疾風」に比べ操縦性にクセがあり前線では不評だった二式戦「鍾馗」。もともと隼の補完的な機体だったが設計者の糸川博士は傑作機と称している。確かに外国機との比較試験では優秀な成績を収め 戦後の米軍の評価は高かった。外地でもベテラン操縦士の部隊では一定の戦果をあげている。四式戦が量産されると生産が終わりそのためか実機が一機も現存しない。

ハインケルHE100D-1はメッサーシュミットBf109の競作に敗れたHe112の発展改良型である。D-0型が試作型でD-1型は量産準備型とか増加試作型に相当する。高性能機を作りながらハインケルが度々不採用になるのはエルンスト・ハインケル博士の政治的確執とも言われるが技術的に凝った構造で実戦運用上懸念される機体も多くこのHE100D-1もその一つ。ただこれらの論争は戦争後半になると一笑に付されルフトバッフェもハインケルに泣き付く機会が増え始める。

アエルマッキ M.C.72はシュナイダーカップでカーチスR3C-2からタイトルを奪い返したマッキM.39の後継機となるレース専用機。カーチスR3C-2は紅の豚のミッキー・カーチス、マッキM.39はポルコ・ロッソの同僚フェラーリン少佐の乗機モデルとなった。マッキ M.C.72が1934年に打ち立てた平均速度709km/h(440mph)の速度記録は水上機(フロート付き航空機)としては現在に到っても破られていない。
と…いう歴史秘話は同人ネタとしては申し分なかったが例のコロナというより五輪のせいでコミケは事実上丸一年以上も先に飛ばされてしまった。この「戦翼のシグルドリーヴァ」の放送時期も同じ理由でズレてしまったことは不運というだけでは溢しきれない。来年の冬まで精々書き溜めて「薄くない本」を作ってやろう。
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旅行・ツーリング
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国道52号線を北上すると静岡市と甲府のほぼ中間地点にあり、スキーやスノボが流行ってた90年代後半くらいには長野を目指す道中トイレ休憩等にほぼ必ず寄っていた。そのころはたしか深夜営業(24h)だったと思う。

駐車場が広く観光バスや大型トラックも余裕で停められ仮眠場所にもなった。近隣に民家らしきものもなくバイクで集団で入っても騒音等も気せず使い勝手が抜群。道路事情はあまり変わっていないが、その頃に比べるとコンビニが増えガススタ特に深夜営業が減った。館内の食堂や土産物屋の他に屋外の売店で立ち食いソバやファーストフードでも充分足りたしそのほうが時間の節約にもなる。

友人達とスキーに車数台で出掛けた時など集合場所にも重宝した。最盛期にはボーリング場まであってローカルテーマパーク的穴場。ファミレスや地方道にも乱立したコンビニなど競合に敵わなかったのかもしれないがバブル期はファミレスもファーストフードもそれなりの値段がした。因みにコレは廃墟ではなく廃屋。廃墟には趣きや郷愁があってコスプレの撮影場所にもなるが廃屋は侘しさが漂う。のぞき込むと何か写ってしまいそうなので中がどうなっているかは見ていない。

スキースノボといえば4WDだったが当時はMT率が高かったため運転にはやや疲労を伴い燃費も悪かった。遅い車は「煽る」のではなく「抜く」。余計な事に絡まないのが当時の常識。目的地があって助手席に相方でもいてくれれば他人にケチを付けているヒマなどない。今より情報が少ないぶん流行り廃りがあってヤルべきこともハッキリしていた。そんなシンプルさがたくさん思い出を作ってくれた。

駐車場が広く観光バスや大型トラックも余裕で停められ仮眠場所にもなった。近隣に民家らしきものもなくバイクで集団で入っても騒音等も気せず使い勝手が抜群。道路事情はあまり変わっていないが、その頃に比べるとコンビニが増えガススタ特に深夜営業が減った。館内の食堂や土産物屋の他に屋外の売店で立ち食いソバやファーストフードでも充分足りたしそのほうが時間の節約にもなる。

友人達とスキーに車数台で出掛けた時など集合場所にも重宝した。最盛期にはボーリング場まであってローカルテーマパーク的穴場。ファミレスや地方道にも乱立したコンビニなど競合に敵わなかったのかもしれないがバブル期はファミレスもファーストフードもそれなりの値段がした。因みにコレは廃墟ではなく廃屋。廃墟には趣きや郷愁があってコスプレの撮影場所にもなるが廃屋は侘しさが漂う。のぞき込むと何か写ってしまいそうなので中がどうなっているかは見ていない。

スキースノボといえば4WDだったが当時はMT率が高かったため運転にはやや疲労を伴い燃費も悪かった。遅い車は「煽る」のではなく「抜く」。余計な事に絡まないのが当時の常識。目的地があって助手席に相方でもいてくれれば他人にケチを付けているヒマなどない。今より情報が少ないぶん流行り廃りがあってヤルべきこともハッキリしていた。そんなシンプルさがたくさん思い出を作ってくれた。
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旅行・ツーリング
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富士山レーダーはNHKの高視聴率番組「プロジェクトX」第一回(2000年3月)「巨大台風から日本を守れ~富士山頂・男たちは命をかけた~」で建設の逸話が紹介された。当時まだ第一話とは知らず何かの特集番組と思って見ていたと思う。

富士山レーダーは1999年に運用を終了。そのドーム部分がここに移築された。1959年(昭和34年)の伊勢湾台風の大災害を受け台風の接近を正確に観測するため建設開始。1964年(昭和39年)第一回東京オリンピックの年に運用が開始された。まだ気象衛星なども無く観測機材も貧弱な時代。富士山頂に大型レーダーを設置するという難工事と厳しい条件の中で観測に従事した方々に思いを馳せるのも一考。日本一高い場所という富士山の利用の仕方の一面がそこにある。

「プロジェクトX〜挑戦者たち〜」は回を追う毎にやや過剰演出なドラマ仕立てな時期もあったが工業遺産という一般にはやや退屈な物件を広く宣揚する媒体としては秀作だったと思う。遊園地やテーマパークではないが夏休みの自由研究がココ一ヶ所だけで完結するくらい濃い内容の資料や遺品類が保管されていた。

近年こうした役目を終えた工業遺産を後世に伝える保存や保管方法やその費用等が論争になっている。戦後急速に工業化が進んだ我が国が世代交代の時期に入り、苦労して作り上げた物を全て廃棄してしまうのは「勿体ない」と思うのが人情。だが古くなった遺品を修復し保存するための資金の捻出は現実問題。これらにまだ答えはない。歴史を物語として伝えるのもその方途の一つでもある。

富士山レーダーは1999年に運用を終了。そのドーム部分がここに移築された。1959年(昭和34年)の伊勢湾台風の大災害を受け台風の接近を正確に観測するため建設開始。1964年(昭和39年)第一回東京オリンピックの年に運用が開始された。まだ気象衛星なども無く観測機材も貧弱な時代。富士山頂に大型レーダーを設置するという難工事と厳しい条件の中で観測に従事した方々に思いを馳せるのも一考。日本一高い場所という富士山の利用の仕方の一面がそこにある。

「プロジェクトX〜挑戦者たち〜」は回を追う毎にやや過剰演出なドラマ仕立てな時期もあったが工業遺産という一般にはやや退屈な物件を広く宣揚する媒体としては秀作だったと思う。遊園地やテーマパークではないが夏休みの自由研究がココ一ヶ所だけで完結するくらい濃い内容の資料や遺品類が保管されていた。

近年こうした役目を終えた工業遺産を後世に伝える保存や保管方法やその費用等が論争になっている。戦後急速に工業化が進んだ我が国が世代交代の時期に入り、苦労して作り上げた物を全て廃棄してしまうのは「勿体ない」と思うのが人情。だが古くなった遺品を修復し保存するための資金の捻出は現実問題。これらにまだ答えはない。歴史を物語として伝えるのもその方途の一つでもある。
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イベント
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数年ぶりに第三京浜ミーティングに来た。今年は夏コミもないし他の予定も吹っ飛んでしまったがバイクの修理が間に合わず四輪。そこで今回は東名から三京保土ヶ谷PAまで全行程カーナビ。だから自粛中の都内には全く入っていない。

おかげで予定より一時間近く早く到着。三京の食堂で夕食を取るつもりだったが例の営業時間の短縮で午後7時に閉店していた。仕方なくでもないが制限速度越え&ノンストップで走ってきたため少々疲れた。時間まで車内で仮眠を取った。

暗くなる頃からバイクが増え始めた。定刻の午後8時過ぎKROGの参加者様らしき車両が三々五々集まり始める。私なんぞバイクがなければただのオッサンなんだが常連顔で近づいていく。この日が梅雨明けであまり暑くないのは幸い。

バイクというのは走り出してしまうと風が当って多少涼しくなる。だから傍から見るほど夏走るのは暑くない。昔の人は夏の夜に走った。90年代は三京も日付が変わる頃から込み始めた。だから最近ファミレスの深夜営業が減り始めている。

この次の日カワサキ・ミニバイク・ミーティングというのがあるそうでKS・KSRで参加された方がいた。一台欲しいと思うこのクラスだが維持するとなるとなかなか難しい。この機種のオーナーはとにかく丁寧なメンテやカスタムをしてらっしゃる。

第三京浜が全盛期だった80年代に比べたら今はお淋しい限りだ。だが「若者のバイク離れ」等と若年に擦り付けるのは好きではない。その頃マンガに影響されてチームだ!カンバンだ!とイキっておきながら あっさり「降りた」連中も多いからだ。
だから今バイクに乗ってくれる若者は貴重だし昔から残っている友人は大事にしなければならない。降りた奴等にも都合はあるだろう。そのほうが賢いのかもしれない。今はこんな世の中だからせめて今できることに全力で集中したい。

おかげで予定より一時間近く早く到着。三京の食堂で夕食を取るつもりだったが例の営業時間の短縮で午後7時に閉店していた。仕方なくでもないが制限速度越え&ノンストップで走ってきたため少々疲れた。時間まで車内で仮眠を取った。

暗くなる頃からバイクが増え始めた。定刻の午後8時過ぎKROGの参加者様らしき車両が三々五々集まり始める。私なんぞバイクがなければただのオッサンなんだが常連顔で近づいていく。この日が梅雨明けであまり暑くないのは幸い。

バイクというのは走り出してしまうと風が当って多少涼しくなる。だから傍から見るほど夏走るのは暑くない。昔の人は夏の夜に走った。90年代は三京も日付が変わる頃から込み始めた。だから最近ファミレスの深夜営業が減り始めている。

この次の日カワサキ・ミニバイク・ミーティングというのがあるそうでKS・KSRで参加された方がいた。一台欲しいと思うこのクラスだが維持するとなるとなかなか難しい。この機種のオーナーはとにかく丁寧なメンテやカスタムをしてらっしゃる。

第三京浜が全盛期だった80年代に比べたら今はお淋しい限りだ。だが「若者のバイク離れ」等と若年に擦り付けるのは好きではない。その頃マンガに影響されてチームだ!カンバンだ!とイキっておきながら あっさり「降りた」連中も多いからだ。

だから今バイクに乗ってくれる若者は貴重だし昔から残っている友人は大事にしなければならない。降りた奴等にも都合はあるだろう。そのほうが賢いのかもしれない。今はこんな世の中だからせめて今できることに全力で集中したい。
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エアパーク浜松広報館は航空祭の帰りに何度か寄ったことがある。だが来場者17万人といわれる中部地区有数のエアフェスタの最中。広報館もごった返す。平日に来るタイミングを狙っていた。今年のコロナ禍で自粛解除直後は寧ろ幸い。

博物館とか美術館という所は自分の興味のある箇所はゆっくり見たい。「ぼっち」こそ王道。今回ついでがあって母を連れて来館。F‐2のモックアップを見学しているのが母。例の感染予防のため順路等に多少の制限はあるが見学する側としてはこの上ない好条件。こんでいる時は見学できないところも余裕で利用できる。

格納庫館にある旧T‐2高等練習機のコンバット・シミュレーターに乗るウチの母。この格納庫館は昔ここが浜松南基地と呼ばれていた頃の名残。当時は浜松北基地が第一航空団の駐屯する主力機基地でF‐4EJファントムも配備されていた。

広報館の方から操作方法を教わる母。コースが初級~上級に4段階あり初級はフライト、上級は武器管制がありミサイルと機関砲を発射できる。フライト・シミュレーターは三次元運動するがこの時はスクリーンに映る景色のみで操縦体験。

この日7月29日はキスカ島撤退作戦の日だが実はウチの母の誕生日だったりする。このアトラクションは非常に人気があり普段はそうとう待たないと乗れない。その他の自衛隊機も乗車可能でしかもOBと思われる方の丁寧な説明付き。

基地祭の時には行ったことのなかった3階の展示物の一つボーイング777型機(日本国)政府専用機貴賓室モデル。政府専用機は航空自衛隊所属。普段は千歳基地に所属し格納されている。こちらは中まで入れず外から見学のみ。

展示資料館3階の滑走路側にある喫茶スカイラウンジ“Fuji”。もちろん離着陸も見える。メニューや雰囲気がどことなく懐かしく好感。ガッツリ食べる所ではないので値段も安い。浜松は元々陸軍航空隊の基地だが自衛隊といえば海軍カレー。

外連味がなく昔っぽいスタンダードなカレーライス。これが良い。これがヘンに凝っていると文句をいうヤツが必ずいる。メニューに名物「家康君カレー」もあるのが地域貢献。腹いっぱい食べたい奴は山間地のダムの喫茶でダムカレーでも食べれば宜しい。カネに余裕があるならウナギ。浜松市民は餃子を消費しろ。

常連と思しき初老が数名コーヒーを啜りながら滑走路を眺めていた。デカいレンズのカメラを持って撮影のタイミングを計っているようだがT‐4練習機は轟音というほど音がせず離着陸直前までわからない。エアパークは入場無料なのでこのラウンジも当然タダで来ることができる。近隣にお住まいの方は羨ましい限りだ。

エアコンが利いたラウンジの中から滑走路を眺めていると、T‐4練習機がタッチ・アンド・ゴーを繰り返し、梅雨明け間近の気温30℃のタキシーウェイを自衛官氏がランニングしていた。こんな蒸し暑い中を訓練に励む彼らを羨ましく思った。

博物館とか美術館という所は自分の興味のある箇所はゆっくり見たい。「ぼっち」こそ王道。今回ついでがあって母を連れて来館。F‐2のモックアップを見学しているのが母。例の感染予防のため順路等に多少の制限はあるが見学する側としてはこの上ない好条件。こんでいる時は見学できないところも余裕で利用できる。

格納庫館にある旧T‐2高等練習機のコンバット・シミュレーターに乗るウチの母。この格納庫館は昔ここが浜松南基地と呼ばれていた頃の名残。当時は浜松北基地が第一航空団の駐屯する主力機基地でF‐4EJファントムも配備されていた。

広報館の方から操作方法を教わる母。コースが初級~上級に4段階あり初級はフライト、上級は武器管制がありミサイルと機関砲を発射できる。フライト・シミュレーターは三次元運動するがこの時はスクリーンに映る景色のみで操縦体験。

この日7月29日はキスカ島撤退作戦の日だが実はウチの母の誕生日だったりする。このアトラクションは非常に人気があり普段はそうとう待たないと乗れない。その他の自衛隊機も乗車可能でしかもOBと思われる方の丁寧な説明付き。

基地祭の時には行ったことのなかった3階の展示物の一つボーイング777型機(日本国)政府専用機貴賓室モデル。政府専用機は航空自衛隊所属。普段は千歳基地に所属し格納されている。こちらは中まで入れず外から見学のみ。

展示資料館3階の滑走路側にある喫茶スカイラウンジ“Fuji”。もちろん離着陸も見える。メニューや雰囲気がどことなく懐かしく好感。ガッツリ食べる所ではないので値段も安い。浜松は元々陸軍航空隊の基地だが自衛隊といえば海軍カレー。

外連味がなく昔っぽいスタンダードなカレーライス。これが良い。これがヘンに凝っていると文句をいうヤツが必ずいる。メニューに名物「家康君カレー」もあるのが地域貢献。腹いっぱい食べたい奴は山間地のダムの喫茶でダムカレーでも食べれば宜しい。カネに余裕があるならウナギ。浜松市民は餃子を消費しろ。

常連と思しき初老が数名コーヒーを啜りながら滑走路を眺めていた。デカいレンズのカメラを持って撮影のタイミングを計っているようだがT‐4練習機は轟音というほど音がせず離着陸直前までわからない。エアパークは入場無料なのでこのラウンジも当然タダで来ることができる。近隣にお住まいの方は羨ましい限りだ。

エアコンが利いたラウンジの中から滑走路を眺めていると、T‐4練習機がタッチ・アンド・ゴーを繰り返し、梅雨明け間近の気温30℃のタキシーウェイを自衛官氏がランニングしていた。こんな蒸し暑い中を訓練に励む彼らを羨ましく思った。