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NHKの大河ドラマ「青天を衝け」が、渋沢が欧州から帰国して以降の「静岡編」に移行するに伴ってパネル展が静岡駅地下広場「しずチカ」で開催された。渋沢栄一の予備知識といえば、貧しい下級士族から一代で大富豪になった典型的な偉人伝。論語に精通し、銀行や多数の事業を起こし近代日本の基を作った人物…というていど。実は静岡県とは関係は深い。
パリ万博(1867年)や欧州の視察のため渡航した渋沢だったが、渡航中に大政奉還が起り帰国を命ぜられる。帰国後、幕臣の渋沢は駿府城に謹慎した徳川慶喜と面会、静岡藩に留まり藩仕官となる。その間、静岡市紺屋町に商法会所という金融機関を設立して農家等に融資。藩財政の立て直しにも着手。他にも静岡教育会や県立葵文庫、市立商業高校等の創設、富士身延鉄道(身延線)や掛川鉄道(天浜線)の開業に携わるなど、渋沢の足跡は静岡県内そこらじゅうにあり、教育・産業振興等の功績は膨大な数に上る。
ここでは特に商法会所を通じて資金力のない茶農家を援助し、製茶工場の建設等を後押し。明治政府の殖産興業にも寄与したことが紹介されている。ここで茶でも啜りながら、明治の歴史に暫し思いを馳せるも好し。
パリ万博(1867年)や欧州の視察のため渡航した渋沢だったが、渡航中に大政奉還が起り帰国を命ぜられる。帰国後、幕臣の渋沢は駿府城に謹慎した徳川慶喜と面会、静岡藩に留まり藩仕官となる。その間、静岡市紺屋町に商法会所という金融機関を設立して農家等に融資。藩財政の立て直しにも着手。他にも静岡教育会や県立葵文庫、市立商業高校等の創設、富士身延鉄道(身延線)や掛川鉄道(天浜線)の開業に携わるなど、渋沢の足跡は静岡県内そこらじゅうにあり、教育・産業振興等の功績は膨大な数に上る。
ここでは特に商法会所を通じて資金力のない茶農家を援助し、製茶工場の建設等を後押し。明治政府の殖産興業にも寄与したことが紹介されている。ここで茶でも啜りながら、明治の歴史に暫し思いを馳せるも好し。
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2年連続で中止の静岡ホビーショーの代替イベントだった合同展示会が中止。さらにその代替だった「静岡ホビーショー2021秋」(9/9~9/12)も中止。準備をしていた方々は落胆されたことだろう。まさに臥薪嘗胆だ。
こんな時のためにあってくれて良かったホビースクエア。今年開館十周年となるはずだ。幸いにも巣籠り需要のおかげでプラモデルの売上は好調だという。諸手を上げて喜べる時期ではないが、地場産品が創り出す大衆文化として根付いたことは良いことだ。中止になるまでホビーショーの来場客の激増ぶりも特筆すべきこと。この辺りの系譜は、いずれ同人ネタにまとめようと思っていたので、次回冬コミあたりで全力で吐き出すつもり。そのための貴重な資料がこのホビースクエアには唸りを上げている。
ホビーショーの前身となる「第1回生産者見本市」は60年前の1959年(昭和34年)、葵区の料亭「浮月楼」で開催された。まだ適当な展示場がなかったためだろう。まだプラモデルに限定したものではなく船舶模型といったタイトルの時期もあり、プラモ主体になるのは1962年(昭和37年)から。1960年(昭和35年)からは静岡産業会館(静岡県産業経済会館)に移動。その後、1970年(昭和45年)から静岡市駿府会館、翌1971年(昭和46年)から静岡市民体育館。1989年(平成元年)第28回から現在のツインメッセの前身「静岡産業館」での開催となった。ガンプラブームは1981年からなので、それまではAFVや航空機、ウォーターラインやスポーツカーなどが主体。キャラものは今井科学のサンダーバードなんかもあったはずだ。
自衛隊が本格参加するのが2004年(平成16年)からで、翌年にはブルーインパルスも展示飛行しているという充実ぶり。ちょうど私が転職した時期にあたり、この頃からは手元に資料が多少残っている。2010年(平成22年)7月から開催された「静岡ホビーフェア」の等身大ガンダム展示以降、地場産業としてもプラモデルの認知度も大いに上がった。期間中の来場者数は予想を大きく上回る160万人。経済波及効果は推算87億円という。
静岡ホビーフェアの後半の3月、東日本大震災が発生。同年もホビーショーは開催されるが、翌2012年も災害派遣が長引いて自衛隊の展示はなく、かなり寂しかった。続く2013年頃からオンラインゲームやコンテンツの影響で急速に流れが変わる。この辺りはまた別項で書きたい。因みに震災の時、静岡で震度4以上の横揺れの中でもガンダムはビクともしなかった。
こんな時のためにあってくれて良かったホビースクエア。今年開館十周年となるはずだ。幸いにも巣籠り需要のおかげでプラモデルの売上は好調だという。諸手を上げて喜べる時期ではないが、地場産品が創り出す大衆文化として根付いたことは良いことだ。中止になるまでホビーショーの来場客の激増ぶりも特筆すべきこと。この辺りの系譜は、いずれ同人ネタにまとめようと思っていたので、次回冬コミあたりで全力で吐き出すつもり。そのための貴重な資料がこのホビースクエアには唸りを上げている。
ホビーショーの前身となる「第1回生産者見本市」は60年前の1959年(昭和34年)、葵区の料亭「浮月楼」で開催された。まだ適当な展示場がなかったためだろう。まだプラモデルに限定したものではなく船舶模型といったタイトルの時期もあり、プラモ主体になるのは1962年(昭和37年)から。1960年(昭和35年)からは静岡産業会館(静岡県産業経済会館)に移動。その後、1970年(昭和45年)から静岡市駿府会館、翌1971年(昭和46年)から静岡市民体育館。1989年(平成元年)第28回から現在のツインメッセの前身「静岡産業館」での開催となった。ガンプラブームは1981年からなので、それまではAFVや航空機、ウォーターラインやスポーツカーなどが主体。キャラものは今井科学のサンダーバードなんかもあったはずだ。
自衛隊が本格参加するのが2004年(平成16年)からで、翌年にはブルーインパルスも展示飛行しているという充実ぶり。ちょうど私が転職した時期にあたり、この頃からは手元に資料が多少残っている。2010年(平成22年)7月から開催された「静岡ホビーフェア」の等身大ガンダム展示以降、地場産業としてもプラモデルの認知度も大いに上がった。期間中の来場者数は予想を大きく上回る160万人。経済波及効果は推算87億円という。
静岡ホビーフェアの後半の3月、東日本大震災が発生。同年もホビーショーは開催されるが、翌2012年も災害派遣が長引いて自衛隊の展示はなく、かなり寂しかった。続く2013年頃からオンラインゲームやコンテンツの影響で急速に流れが変わる。この辺りはまた別項で書きたい。因みに震災の時、静岡で震度4以上の横揺れの中でもガンダムはビクともしなかった。