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最近話題が多い浜松。遠鉄西鹿島線はJR浜松駅に近い新浜松から天浜線も接続する西鹿島駅までの17.8km。大井川鉄道と同様河川舟運の代替に作られた天竜川に沿った南北方向の路線のためなかなか乗る機会がなかった。

県内に限らず私鉄路線はだいたいがJR(旧国鉄)と変に仲が悪いため駅が直接接続しない。遠鉄新浜松駅もJR駅から西に数百m離れている。80年代に高架化されるまでは地上駅だったそうで今は複合施設を兼ねた高架駅舎になっている。それでも天浜線が旧国鉄から民営化されたいわゆる三セクなのに比べると車両は今風の真新しい車体。100番台がクハ車(制御車)。

遠州鉄道2000形電車。通称「赤電」。前型の1000形とは機械的な改良で併用されている。新造車両というのはグループ企業を含め採算は悪くないということか。新浜松から西鹿島まで18駅を約32分で結ぶ通勤型電車。

新浜松から8つ目の駅、所要時間15分ほどの「さぎの宮」駅で折り返す。数年前からネット掲示板で「きさらぎ駅」として有名になり、その影響で最近アニメにも登場したことがある伝説の駅。周りは本当になにもない。

いかにもローカル駅だが西鹿島駅で天浜線に接続するのでJRと合わせて浜松市を囲むような鉄道網になる。平地のため風を受けるし夜は真っ暗になりそう。そのため周辺はその筋では有名な心霊スポット。私は遠慮する。

同1000形電車。新浜松向きが制御電動車モハ車、西鹿島向きが制御車クハ車の二両編成で人が居たので撮れなかったが車両は貫通型。各駅の間隔が短いので速度は速くない。天竜川に並行し渡ることもあって景色が良い。

県内に限らず私鉄路線はだいたいがJR(旧国鉄)と変に仲が悪いため駅が直接接続しない。遠鉄新浜松駅もJR駅から西に数百m離れている。80年代に高架化されるまでは地上駅だったそうで今は複合施設を兼ねた高架駅舎になっている。それでも天浜線が旧国鉄から民営化されたいわゆる三セクなのに比べると車両は今風の真新しい車体。100番台がクハ車(制御車)。

遠州鉄道2000形電車。通称「赤電」。前型の1000形とは機械的な改良で併用されている。新造車両というのはグループ企業を含め採算は悪くないということか。新浜松から西鹿島まで18駅を約32分で結ぶ通勤型電車。

新浜松から8つ目の駅、所要時間15分ほどの「さぎの宮」駅で折り返す。数年前からネット掲示板で「きさらぎ駅」として有名になり、その影響で最近アニメにも登場したことがある伝説の駅。周りは本当になにもない。

いかにもローカル駅だが西鹿島駅で天浜線に接続するのでJRと合わせて浜松市を囲むような鉄道網になる。平地のため風を受けるし夜は真っ暗になりそう。そのため周辺はその筋では有名な心霊スポット。私は遠慮する。

同1000形電車。新浜松向きが制御電動車モハ車、西鹿島向きが制御車クハ車の二両編成で人が居たので撮れなかったが車両は貫通型。各駅の間隔が短いので速度は速くない。天竜川に並行し渡ることもあって景色が良い。
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NEWS
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葵総区の皆様!2023年「青年・凱歌の年」あけましておめでとうございます!またあらたに区長を迎え新体制での新出発、真におめでとうございます!本年も異体同心の団結で大勝利の一年を飾って戴きたいと思います。

私自身年末年始と友好活動に奔走。元旦には友人を伴って学会本部を見学。先陣を切って弘教に励むことができました。無論これは仕事が不定期で日常的な学会活動に参加する時間を取れない私なりの戦い方。先んずれば人を制す。新年から自ら行動をもって弘教の手本を示して参りました。

対照的に、昨今は流行のSNSを悪用した誹謗中傷や妨害も陰湿化しつつあります。残念ながら葵区の学会員にもこうした輩がおりましたが、正体が特定され炎上。その後、自ら聖教に投稿したウソの体験が不評を買い、得意のSNSでもオワコン状態。「獅子身中の蟲」の末路は本当に哀れです。

戸田先生はおっしゃいました。「折伏をすれば信用が残る」と。仮に入会まで導くことが叶わずとも友の幸せを祈る姿勢は必ず伝わるものがあります。友人知人こそ人生の宝。まして今年は統一地方選が控えています。いかなる妨害にも臆することなく本年も更なる友好の輪を拡げて参ります。
葵総区の男子部・壮年部、なかんずく幹部の皆様には、臆病者や卑怯者にはならぬよう、真に男らしい戦いに徹して頂くことを期待しています!。

私自身年末年始と友好活動に奔走。元旦には友人を伴って学会本部を見学。先陣を切って弘教に励むことができました。無論これは仕事が不定期で日常的な学会活動に参加する時間を取れない私なりの戦い方。先んずれば人を制す。新年から自ら行動をもって弘教の手本を示して参りました。

対照的に、昨今は流行のSNSを悪用した誹謗中傷や妨害も陰湿化しつつあります。残念ながら葵区の学会員にもこうした輩がおりましたが、正体が特定され炎上。その後、自ら聖教に投稿したウソの体験が不評を買い、得意のSNSでもオワコン状態。「獅子身中の蟲」の末路は本当に哀れです。

戸田先生はおっしゃいました。「折伏をすれば信用が残る」と。仮に入会まで導くことが叶わずとも友の幸せを祈る姿勢は必ず伝わるものがあります。友人知人こそ人生の宝。まして今年は統一地方選が控えています。いかなる妨害にも臆することなく本年も更なる友好の輪を拡げて参ります。
葵総区の男子部・壮年部、なかんずく幹部の皆様には、臆病者や卑怯者にはならぬよう、真に男らしい戦いに徹して頂くことを期待しています!。
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ミリタリー
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1月25日はゼレンスキーの誕生日。それに合わせて主力戦車の供与が発表された。これから春に向けて対独戦の記念日が増える。その前に気勢を削ぐように各国が大々的に宣言。対戦車ミサイルの善戦から戦車不要論も囁かれたが戦略兵器が規制された局地戦で戦車は重要な外交カードになる。

主力戦車の供与は時間の問題で発表時期は水面下で折衝がされていたはずだ。イギリスは外交的にも地政学的にもロシアから最も遠く比較的刺激が少なくて済む。チャレンジャー2の実力は実戦で立証済み。英軍戦車伝統の重装甲はNATO軍の戦車兵からも人気が高い。チャレンジャーは元々英軍のチーフテン主力戦車の輸出仕様(シャーイラン戦車)のキャンセル分を英軍に合わせた改良版でベースが、長期に渡り運用され続けた信頼性も高い。

レオパルドは事実上NATOの主力戦車で攻守共強力な上、隣国ポーランド等にも配備され訓練上も導入時期的にも有利。旧型レオパルド1が2400両以上、レオパルド2が2000両以上生産され欧州全体で慣熟や補給体制も整っている。またすでにウクライナには派生型のゲパルト対空戦車や同じく追加支援でマルダー歩兵戦闘車の供与も決まっており今後ウクライナ軍の西側装備化と共に悲願のNATO加盟を後押しする存在になるに違いない。

ゼレンスキーが最も供与を望んでいたM1エイブラムスは名実共に評価が高く、そのぶんロシアが最も嫌がる存在。ただゼレンスキーも悪名高き劣化ウラン弾は使いたくないはず。ウクライナに供与される場合はポーランドか台湾に輸出される分から引き抜くカタチになるかと思う。米軍標準仕様のガスタービンエンジンでは燃料補給に専用の車両と部隊が随伴する必要があり、輸出の場合はディーゼルエンジンに換装されるかユーロパワーパックの搭載も検討され、イラク治安維持軍仕様は劣化ウラン装甲も降ろされている。当然チャレンジャー2やレオパルド2より導入時期は遅くなる。
各国とも訓練面でも機密保持の観点からも最新型ではなく保管状態にある前型やダウングレード化もされるかもしれない。また今後とも主力戦車を含む装備品のの供与を申し出る国は増えるものと思われる。更にNATO各国や欧州連合内でもウクライナとの関係を巡る密かな覇権争いも始まる。

主力戦車の供与は時間の問題で発表時期は水面下で折衝がされていたはずだ。イギリスは外交的にも地政学的にもロシアから最も遠く比較的刺激が少なくて済む。チャレンジャー2の実力は実戦で立証済み。英軍戦車伝統の重装甲はNATO軍の戦車兵からも人気が高い。チャレンジャーは元々英軍のチーフテン主力戦車の輸出仕様(シャーイラン戦車)のキャンセル分を英軍に合わせた改良版でベースが、長期に渡り運用され続けた信頼性も高い。

レオパルドは事実上NATOの主力戦車で攻守共強力な上、隣国ポーランド等にも配備され訓練上も導入時期的にも有利。旧型レオパルド1が2400両以上、レオパルド2が2000両以上生産され欧州全体で慣熟や補給体制も整っている。またすでにウクライナには派生型のゲパルト対空戦車や同じく追加支援でマルダー歩兵戦闘車の供与も決まっており今後ウクライナ軍の西側装備化と共に悲願のNATO加盟を後押しする存在になるに違いない。

ゼレンスキーが最も供与を望んでいたM1エイブラムスは名実共に評価が高く、そのぶんロシアが最も嫌がる存在。ただゼレンスキーも悪名高き劣化ウラン弾は使いたくないはず。ウクライナに供与される場合はポーランドか台湾に輸出される分から引き抜くカタチになるかと思う。米軍標準仕様のガスタービンエンジンでは燃料補給に専用の車両と部隊が随伴する必要があり、輸出の場合はディーゼルエンジンに換装されるかユーロパワーパックの搭載も検討され、イラク治安維持軍仕様は劣化ウラン装甲も降ろされている。当然チャレンジャー2やレオパルド2より導入時期は遅くなる。
各国とも訓練面でも機密保持の観点からも最新型ではなく保管状態にある前型やダウングレード化もされるかもしれない。また今後とも主力戦車を含む装備品のの供与を申し出る国は増えるものと思われる。更にNATO各国や欧州連合内でもウクライナとの関係を巡る密かな覇権争いも始まる。
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イベント
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今こうした箱物には賛否両論あるが先ずは実際に見てみない事には風評を鵜吞みにしたような話になる。ましてこの場所に博物館を作るには企画段階からたいへんだっただろう。私が私的に興味があるのは実際の遺構だ。

晩年の徳川家康の居城として有名な駿府城の元になったのは室町時代頃に今川家の武家屋敷として建てられた館だったと云われる。その後、武田の上洛により今川が退散。豊臣方の家臣が住んだ後に徳川に渡る。戦国武将は自らの勢力下にあることを誇示するため敵城を占拠した後は焼き払ったりその後に自分の城を造ったりする。その時には前の城主の痕跡を消したがる。武田は今川を追い出し、豊臣はその上に、家康は更にその上に城を建てた様子が伺える。だから発掘が進むと今川や豊臣の遺構が見付かる。

駿府城はそうした何重にも遺構が折り重なった城址ということになる。もっと言うと今残っている堀はいちばん内側の本丸の堀で、その外側に今はオフィスビルや商店街がある付近に三重の外堀がまだ埋まっているといわれる。外堀には安倍川から水を入れる水路があり、反対側には水運のため海にまで繋がる水路も存在した。駿府城は実に広大な敷地を占めていた。更にその外には武家屋敷や町人町。それらは今でも町名になって残っている(ブラタモリでやれよNHK)。古来外堀を埋める時には廃材等のゴミやガラクタだけでなく家畜や人の死骸まで埋めてしまうのが常識。結局のところ静岡市中心部はドコを掘っても何らかの遺跡が出ると云われている。

戦国時代の石積という実際の遺跡。こういう展示が良いと思うし私的に好き。ただ徳川より数百年前のもので「家康」を売りたい昨今の主旨と少しズレる。たぶん今川屋敷の遺構ではないかと思うが実際の今川館はもう少し西側とする説もある。だから遺跡の発掘はキリがないし事実上不可能な部分も多い。駿府城の復元の計画もあるが発掘の完了を待っていると何時になるかわからない。結局こうした施設はドコで折り合いを付けるか課題で最も難しい。学術的な側面を捨てて観光資源として考えるなら、多少信憑性に欠けても家康の居城で二度も焼失した駿府城の復元が良いと思う。序でにレストランで興津鯛の天ぷらと折戸茄子を出してくれたら尚好し。

晩年の徳川家康の居城として有名な駿府城の元になったのは室町時代頃に今川家の武家屋敷として建てられた館だったと云われる。その後、武田の上洛により今川が退散。豊臣方の家臣が住んだ後に徳川に渡る。戦国武将は自らの勢力下にあることを誇示するため敵城を占拠した後は焼き払ったりその後に自分の城を造ったりする。その時には前の城主の痕跡を消したがる。武田は今川を追い出し、豊臣はその上に、家康は更にその上に城を建てた様子が伺える。だから発掘が進むと今川や豊臣の遺構が見付かる。

駿府城はそうした何重にも遺構が折り重なった城址ということになる。もっと言うと今残っている堀はいちばん内側の本丸の堀で、その外側に今はオフィスビルや商店街がある付近に三重の外堀がまだ埋まっているといわれる。外堀には安倍川から水を入れる水路があり、反対側には水運のため海にまで繋がる水路も存在した。駿府城は実に広大な敷地を占めていた。更にその外には武家屋敷や町人町。それらは今でも町名になって残っている(ブラタモリでやれよNHK)。古来外堀を埋める時には廃材等のゴミやガラクタだけでなく家畜や人の死骸まで埋めてしまうのが常識。結局のところ静岡市中心部はドコを掘っても何らかの遺跡が出ると云われている。

戦国時代の石積という実際の遺跡。こういう展示が良いと思うし私的に好き。ただ徳川より数百年前のもので「家康」を売りたい昨今の主旨と少しズレる。たぶん今川屋敷の遺構ではないかと思うが実際の今川館はもう少し西側とする説もある。だから遺跡の発掘はキリがないし事実上不可能な部分も多い。駿府城の復元の計画もあるが発掘の完了を待っていると何時になるかわからない。結局こうした施設はドコで折り合いを付けるか課題で最も難しい。学術的な側面を捨てて観光資源として考えるなら、多少信憑性に欠けても家康の居城で二度も焼失した駿府城の復元が良いと思う。序でにレストランで興津鯛の天ぷらと折戸茄子を出してくれたら尚好し。
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シモキタは仕事や遊びで何度も来たことがあったので昔の思い出に浸れる…と思っていたが…ここドコ?私の記憶の中にある京王線のガード下に看板だけの雑然とした昭和の下北沢駅がすっかり整理整頓されていた。

下北沢といえばアパレルや古着屋の街。テナント料が高い都心ではまず比較的家賃が安い中野や下北周辺で下積みを積んで修行するという。若者で駅前から混雑するシモキタも年末は空いている。おかげで飲食店もClose。

駅前が空き地のように見えたのは小田急線が地下埋設になってしまったからだ。バブル期の地価高騰は高級住宅街の世田谷を直撃。過密ダイヤ解消のため複々線化を進めていた小田急電鉄の沿線用地買収に手間取って地下埋設に方針変更。代々木上原~梅ヶ丘間の二階建て地下線路が開通したのは2018年3月とずいぶん時間を要した模様。もちろん悪名高き成城学園の「開かずの踏切」は無くなったはず。先輩が遅刻したって言ってた(笑)。

地下といっても小田急が潜っただけで京王は高架のままなのでいわゆる大深度ではないし渋谷や有楽町のような地下迷宮にもなっていない。エスカは進行方向に沿っているしエレベーターもシースルーで1階から2階に行く感覚。そもそも地下鉄が苦手で都内の立体駅で道に迷う私でも全然平気。

下北沢といえばアパレルの街というイメージで地上駅舎もなんとなく垢抜けている。東口から南西口にコンコースで導線もわかりやすい。昔のような変にセレブぶった雰囲気もなく若者ウケしそうだ。因みに今は「ぼっち・ざ・ろっく」のおかげで芸能の街としても名が売れているが、もともと下北沢は昔から舞台やライブが行われ芸能人に会える街としても有名。

ちょっと見覚えがある通りに出た。スマホナビもない頃の営業は業界紙を片手にエージェントの事務所を探すのに時間の大半を費やす。入り組んだ都内では高架に路線名の表記があるととても助かった。通りの名前は「茶沢通り」というらしい。仕事で見た景色が忘れられなくて逆に困る(笑)。

下北沢といえばアパレルや古着屋の街。テナント料が高い都心ではまず比較的家賃が安い中野や下北周辺で下積みを積んで修行するという。若者で駅前から混雑するシモキタも年末は空いている。おかげで飲食店もClose。

駅前が空き地のように見えたのは小田急線が地下埋設になってしまったからだ。バブル期の地価高騰は高級住宅街の世田谷を直撃。過密ダイヤ解消のため複々線化を進めていた小田急電鉄の沿線用地買収に手間取って地下埋設に方針変更。代々木上原~梅ヶ丘間の二階建て地下線路が開通したのは2018年3月とずいぶん時間を要した模様。もちろん悪名高き成城学園の「開かずの踏切」は無くなったはず。先輩が遅刻したって言ってた(笑)。

地下といっても小田急が潜っただけで京王は高架のままなのでいわゆる大深度ではないし渋谷や有楽町のような地下迷宮にもなっていない。エスカは進行方向に沿っているしエレベーターもシースルーで1階から2階に行く感覚。そもそも地下鉄が苦手で都内の立体駅で道に迷う私でも全然平気。

下北沢といえばアパレルの街というイメージで地上駅舎もなんとなく垢抜けている。東口から南西口にコンコースで導線もわかりやすい。昔のような変にセレブぶった雰囲気もなく若者ウケしそうだ。因みに今は「ぼっち・ざ・ろっく」のおかげで芸能の街としても名が売れているが、もともと下北沢は昔から舞台やライブが行われ芸能人に会える街としても有名。

ちょっと見覚えがある通りに出た。スマホナビもない頃の営業は業界紙を片手にエージェントの事務所を探すのに時間の大半を費やす。入り組んだ都内では高架に路線名の表記があるととても助かった。通りの名前は「茶沢通り」というらしい。仕事で見た景色が忘れられなくて逆に困る(笑)。
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月並みな話だが子供の頃、絵本か何かで小田急ロマンスカーの存在を知った。小田急は箱根から新宿間を走る。私の住む静岡市から遠くはなかったが実物を見て乗ったのは就職してから。その時の感動もまた一入だった。

私が初めて乗ったのはバブル期の10000形HiSE車。絵本で見たのはたぶん7000形LSE車だと思う。平成初期の50000形VSE車はややおとなしめの印象だが現行の70000形GSE車は伝統の二階建ラインを継承。未来的な中にも懐かしさを感じるレジェンドデザイン。正面のウィンドはたぶん歴代最も広く大人気なくも最前列を独占したい衝動に駆られる。また特急「はこね」に小田原は停車駅の一つ。ここで見ることができたのは超ラッキー。

まずはチケットを購入。小田原から新宿まで普通運賃900円に全席指定特急券が1000円で合計1900円。指定席は箱根が見える左窓側を指定。モニターの赤いアイコンが70000形GSE。銀色がEXEかEXEα形。地下鉄に乗り入れて北千住まで行くのは初めて知った。常磐線沿いや北関東からのアクセスがずいぶん楽になる。我孫子に住んだことがあるので遠さがわかる。

青い車体の60000形MSE車は東京メトロ千代田線や御殿場線にも乗り入れる。現行と20000形RSE車の中間の白ボディの50000形VSE車は既に廃止。歴代車両は海老名のロマンスカーミュージアムで見ることができる。

小田原駅は橋上駅舎が大きくホームを覆っているため雨天でも乗り換えで濡れる心配はないと言って良い。各路線は平行に走るため乗り換えもわかりやすい。海が近いため極端に冷え込むことはない。ただ箱根は冷える。

現行の列車はステンレスやアルミ製ボディが普通だが真紅に塗装された車体にロマンスカーらしさを感じる。旅客機や自動車でも赤色の塗装は退色しやすく維持管理に手間が掛かるはずだがボディはピカピカに保たれる。

小田原城が見える。箱根湯本まで距離にして6㎞。折り返し運転になるはずだから小田原駅から乗って帰って来るだけでも良いかもしれない。小田原は線路が入り組んでいる地域だから乗り鉄のプランが浮かんで困る(笑)。

私が初めて乗ったのはバブル期の10000形HiSE車。絵本で見たのはたぶん7000形LSE車だと思う。平成初期の50000形VSE車はややおとなしめの印象だが現行の70000形GSE車は伝統の二階建ラインを継承。未来的な中にも懐かしさを感じるレジェンドデザイン。正面のウィンドはたぶん歴代最も広く大人気なくも最前列を独占したい衝動に駆られる。また特急「はこね」に小田原は停車駅の一つ。ここで見ることができたのは超ラッキー。

まずはチケットを購入。小田原から新宿まで普通運賃900円に全席指定特急券が1000円で合計1900円。指定席は箱根が見える左窓側を指定。モニターの赤いアイコンが70000形GSE。銀色がEXEかEXEα形。地下鉄に乗り入れて北千住まで行くのは初めて知った。常磐線沿いや北関東からのアクセスがずいぶん楽になる。我孫子に住んだことがあるので遠さがわかる。

青い車体の60000形MSE車は東京メトロ千代田線や御殿場線にも乗り入れる。現行と20000形RSE車の中間の白ボディの50000形VSE車は既に廃止。歴代車両は海老名のロマンスカーミュージアムで見ることができる。

小田原駅は橋上駅舎が大きくホームを覆っているため雨天でも乗り換えで濡れる心配はないと言って良い。各路線は平行に走るため乗り換えもわかりやすい。海が近いため極端に冷え込むことはない。ただ箱根は冷える。

現行の列車はステンレスやアルミ製ボディが普通だが真紅に塗装された車体にロマンスカーらしさを感じる。旅客機や自動車でも赤色の塗装は退色しやすく維持管理に手間が掛かるはずだがボディはピカピカに保たれる。

小田原城が見える。箱根湯本まで距離にして6㎞。折り返し運転になるはずだから小田原駅から乗って帰って来るだけでも良いかもしれない。小田原は線路が入り組んでいる地域だから乗り鉄のプランが浮かんで困る(笑)。
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東名や国道246号を使っていると小田原はやや遠い。伊豆を回って静岡に戻るにも熱海から戻ってしまうのが大半。小田原駅周辺はしばらく来なかった間にずいぶんと変わったらしい。もちろん静岡県内とは比べるべくもなく東京寄りの都会的センスで発展した様子。ちょっと見てみたかった。

小田原駅はJR東日本と東海の境目になる駅で、私が仕事で回っていた頃はまだコンプラが甘く、担当者がJR東日本と東海の対立関係をベラベラ喋ってしまい後々相見積などに利用させてもらった。歴史的にも小田原はそうした相互関係を巧く利用して発展してきたように見える。そのためか通過駅にも関わらず何かと便が良く、しかも飲食がリーズナブルな気がする。

というのも仕事で来た時も必ず何か食べて帰ったのを覚えている。食は旅の楽しみの最高位だが割高な物を食わされたり店を探して回るような事態があると後々良い印象が残らない。小田原は常にその逆。この日も箱根ソバの看板が目に付いて仕方なかったが時間が許さなかった。ソバ屋は静岡では過当競争で衰退。次は是非!と思えることが新たな旅の動機になる。

小田原駅には小田急や新幹線、東海道本線の他、伊豆箱根鉄道や箱根登山鉄道が乗り入れる。ブルーのラインの列車は大雄山線。それらは観光開発のために敷設された私鉄が多く風光明媚な山間地や海岸線を走る。採算の良い路線ではないが気象地象が厳しく歴史ある路線の存在意義は大きい。

小田原駅はJR東日本と東海の境目になる駅で、私が仕事で回っていた頃はまだコンプラが甘く、担当者がJR東日本と東海の対立関係をベラベラ喋ってしまい後々相見積などに利用させてもらった。歴史的にも小田原はそうした相互関係を巧く利用して発展してきたように見える。そのためか通過駅にも関わらず何かと便が良く、しかも飲食がリーズナブルな気がする。

というのも仕事で来た時も必ず何か食べて帰ったのを覚えている。食は旅の楽しみの最高位だが割高な物を食わされたり店を探して回るような事態があると後々良い印象が残らない。小田原は常にその逆。この日も箱根ソバの看板が目に付いて仕方なかったが時間が許さなかった。ソバ屋は静岡では過当競争で衰退。次は是非!と思えることが新たな旅の動機になる。

小田原駅には小田急や新幹線、東海道本線の他、伊豆箱根鉄道や箱根登山鉄道が乗り入れる。ブルーのラインの列車は大雄山線。それらは観光開発のために敷設された私鉄が多く風光明媚な山間地や海岸線を走る。採算の良い路線ではないが気象地象が厳しく歴史ある路線の存在意義は大きい。
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わりと最近までバイクや車で移動するのが当り前で新幹線は主に仕事でしか乗らなかった。東京勤務の頃ひと月に一回分の帰省交通費が支給されたので月に一回は静岡の実家から新幹線で神田佐久間町の事務所まで朝通勤。まだ品川には停まらず7時30分のひかりなら9時の始業に間に合った。

そのせいか新幹線のシートは(座り心地抜群なのに)オフィスの事務椅子に座らされているような妙なトラウマがある。これではイカン。いつの時代も(東海道)新幹線は夢と希望を乗せて走る皆の憧れでなければならない。
静岡駅には「ひかり」はほとんど停まらず大半が「こだま」。もちろん「のぞみ」は一本も停まらず全て通過。そのため静岡駅は通過列車も多い。所要時間は静岡から東京まで「ひかり」が約1時間、「こだま」が1時間半くらいの見当。便数は1時間当り3本(内ひかり1本)は来るので、仕事か急ぎでなければわざわざ「ひかり」を待ってまで乗るほどでもない。
車両は現行のN700系とN700A系で最新型のN700S系は使われていない模様。東海道新幹線は開業当時から事実上同じ最も古い路線だからこれ以上のスピードアップが難しいか時短の意味がそれほどないのかもしれない。
蛇足だが静岡東京間はこだまでも1時間半ていど。だから仮に静岡県内にリニアの駅があったとしても、それほど需要が見込めないことは想像に難くない。そもそも(現行の)新幹線の乗降客数自体がけして多くないのだから、計画当初からリニアのルートから外されたのも当然と言えば当然。

この日乗ったのはN700A系。N700系と外観上の違いは無くブレーキや安定装置など機能面の改良の他、室内灯のLED化、座席シートのモケットの変更等が主な違い。私が通勤していた頃は100系で伝説の2階建車両やコンパートメント席もあった。食堂車(通称:ビュフェ車)というのもまだあったが国鉄時代から値段が高目で仕事前なので車内サービスの珈琲くらいで済ませた。今と違うのは喫煙室が無かったこと。その代わり(今と逆に)禁煙車両というのが設けられ、それ以外はタバコが吸えて灰皿もあった(笑)。

そのせいか新幹線のシートは(座り心地抜群なのに)オフィスの事務椅子に座らされているような妙なトラウマがある。これではイカン。いつの時代も(東海道)新幹線は夢と希望を乗せて走る皆の憧れでなければならない。
静岡駅には「ひかり」はほとんど停まらず大半が「こだま」。もちろん「のぞみ」は一本も停まらず全て通過。そのため静岡駅は通過列車も多い。所要時間は静岡から東京まで「ひかり」が約1時間、「こだま」が1時間半くらいの見当。便数は1時間当り3本(内ひかり1本)は来るので、仕事か急ぎでなければわざわざ「ひかり」を待ってまで乗るほどでもない。
車両は現行のN700系とN700A系で最新型のN700S系は使われていない模様。東海道新幹線は開業当時から事実上同じ最も古い路線だからこれ以上のスピードアップが難しいか時短の意味がそれほどないのかもしれない。
蛇足だが静岡東京間はこだまでも1時間半ていど。だから仮に静岡県内にリニアの駅があったとしても、それほど需要が見込めないことは想像に難くない。そもそも(現行の)新幹線の乗降客数自体がけして多くないのだから、計画当初からリニアのルートから外されたのも当然と言えば当然。

この日乗ったのはN700A系。N700系と外観上の違いは無くブレーキや安定装置など機能面の改良の他、室内灯のLED化、座席シートのモケットの変更等が主な違い。私が通勤していた頃は100系で伝説の2階建車両やコンパートメント席もあった。食堂車(通称:ビュフェ車)というのもまだあったが国鉄時代から値段が高目で仕事前なので車内サービスの珈琲くらいで済ませた。今と違うのは喫煙室が無かったこと。その代わり(今と逆に)禁煙車両というのが設けられ、それ以外はタバコが吸えて灰皿もあった(笑)。
テーマ:新幹線で行く東京日帰り - ジャンル:旅行
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静岡駅の風景は昔と変わっていない。そのためかここに来ると受験のために新幹線に乗った頃や東京通勤した頃を思い出す。正直いって通勤の時は緊張していたし気が重いことも多かった。当然、営業所に着いたら必要なものを持ってすぐに営業に出掛ける。その前にちょっと珈琲を飲んだり。

サボっているワケではない。その日に回る得意先や担当者の名前、商談の進捗などチェックしてアタマに入れて行く。ダブルのスーツにアタッシュケースというのが平成営業マンスタイル。新入社員研修からいきなり東京に放り出されてしまった。最初は交渉なんて全くできない。決まり文句の挨拶言葉だけ覚えて行った。「24時間戦えますか」なんていう流行語があった時代。企業はどこもブラックだし成金もヤクザも普通に居る。「イジメに合った」なんて泣言いっても警察も相手にしてくれない。しかも長時間重労働。会社を辞める奴も多い。そんな中、子供の頃から人付き合いが苦手だった私が仕事のおかげで身に付けることができたスキルがあった。
“ コミュニケーション能力 ”。
ネットが普及した今になってもITやベンチャーの経営者や売れっ子ユーチューバーまでが最も重要なスキルとして上げるものの一端をこの時期に磨いていた。ストレスとか体調云々なんて弱音は誰も口にしない。たしかに疲れる時代だった。不眠も食欲不振も普通に経験した。そんな時に街中の珈琲ショップで気を落ち着け作戦を練る。今ほど美味くない珈琲を朝から空きっ腹に飲んでも平気。胃が若かったんだな。ところで私は顧客と食事とかするのが苦手。気が緩んで要らんことまで喋ってしまうから(笑)。

サボっているワケではない。その日に回る得意先や担当者の名前、商談の進捗などチェックしてアタマに入れて行く。ダブルのスーツにアタッシュケースというのが平成営業マンスタイル。新入社員研修からいきなり東京に放り出されてしまった。最初は交渉なんて全くできない。決まり文句の挨拶言葉だけ覚えて行った。「24時間戦えますか」なんていう流行語があった時代。企業はどこもブラックだし成金もヤクザも普通に居る。「イジメに合った」なんて泣言いっても警察も相手にしてくれない。しかも長時間重労働。会社を辞める奴も多い。そんな中、子供の頃から人付き合いが苦手だった私が仕事のおかげで身に付けることができたスキルがあった。
“ コミュニケーション能力 ”。
ネットが普及した今になってもITやベンチャーの経営者や売れっ子ユーチューバーまでが最も重要なスキルとして上げるものの一端をこの時期に磨いていた。ストレスとか体調云々なんて弱音は誰も口にしない。たしかに疲れる時代だった。不眠も食欲不振も普通に経験した。そんな時に街中の珈琲ショップで気を落ち着け作戦を練る。今ほど美味くない珈琲を朝から空きっ腹に飲んでも平気。胃が若かったんだな。ところで私は顧客と食事とかするのが苦手。気が緩んで要らんことまで喋ってしまうから(笑)。
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オートバイ
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おかげさまで昨年末まとめて投稿した昔の写真のリクエストを頂いているのだが、なにしろこのブログをチラ見して発狂している迷惑系が地元には多いらしい。そんな奴等に免じてたまには人が(特に若い女性が)写っていない無機質な風景でも投下してやる。まあ静かに余生を送りたいし(笑)。

写真の時期は私の愛車の改造度合から90年代半ばくらいかと思う。右のZ400FXは会社の同僚氏で中央はバイク繋がりの後輩。フェックスのマフラーはバンス&ハインズ。400ニンジャのほうはツキギのアレーテ・ベルべだったと思う。その頃はクルマやバイクを買ったら先ずマフラーを変える。それが当時のトレンドで「ノーマルはダサい」とまで言われた(笑)。
90年代半ばに車検が規制緩和するとほぼ同時に検対マフラーが出回り始める。その少し前から大手メーカーから車検対応ではないが公道で扱いやすく騒音も抑えたマフラーが発売されていた。左の私のFX400Rに装着されているのはビート・バックファイヤーⅡだが既にビートはレース用にナサート・パルスコーン、行動用にナサート・ベーシックと棲み分け。またエキパイをチタンやステンレスにして見栄えの良いマフラーも増えていた。
マスコミやフィクションでこの辺りの時代考証がかなり曖昧になっているが例えば80年代はレース界デビューを本気で目指すガチな走り屋と暴走族以外はほぼノーマル。でないとバイク屋に嫌がられたりする。90年代になって比較的スペック重視の低騒音マフラーが普及。足回りカスタムが普及して車検を通るようになるのは90年代後半から。それ以前はいわゆる「裏車検」が当り前で私も度々お願いした。この辺りは地域差もかなりある。

京都嵐山に下道使って八つ橋を買いに行った時だと思う。夏場でオーバーヒート対策にオイルをカストロール・シントロンに変えて行った。このオイル通常はとても硬くオーバーヒート近くなると吹けが軽くなった。足回りは藤枝のチューニングショップ「ウィニングラン」にお願いしてゼファー用を移植。80年代まではチューニングは裏稼業で紹介でもなければ一発で断られた。この足回り交換は大成功で前後16インチのゴツゴツいう感じがなくなり疲労が激減。おかげでやたらと遠くまで走るようになった。

写真の時期は私の愛車の改造度合から90年代半ばくらいかと思う。右のZ400FXは会社の同僚氏で中央はバイク繋がりの後輩。フェックスのマフラーはバンス&ハインズ。400ニンジャのほうはツキギのアレーテ・ベルべだったと思う。その頃はクルマやバイクを買ったら先ずマフラーを変える。それが当時のトレンドで「ノーマルはダサい」とまで言われた(笑)。
90年代半ばに車検が規制緩和するとほぼ同時に検対マフラーが出回り始める。その少し前から大手メーカーから車検対応ではないが公道で扱いやすく騒音も抑えたマフラーが発売されていた。左の私のFX400Rに装着されているのはビート・バックファイヤーⅡだが既にビートはレース用にナサート・パルスコーン、行動用にナサート・ベーシックと棲み分け。またエキパイをチタンやステンレスにして見栄えの良いマフラーも増えていた。
マスコミやフィクションでこの辺りの時代考証がかなり曖昧になっているが例えば80年代はレース界デビューを本気で目指すガチな走り屋と暴走族以外はほぼノーマル。でないとバイク屋に嫌がられたりする。90年代になって比較的スペック重視の低騒音マフラーが普及。足回りカスタムが普及して車検を通るようになるのは90年代後半から。それ以前はいわゆる「裏車検」が当り前で私も度々お願いした。この辺りは地域差もかなりある。

京都嵐山に下道使って八つ橋を買いに行った時だと思う。夏場でオーバーヒート対策にオイルをカストロール・シントロンに変えて行った。このオイル通常はとても硬くオーバーヒート近くなると吹けが軽くなった。足回りは藤枝のチューニングショップ「ウィニングラン」にお願いしてゼファー用を移植。80年代まではチューニングは裏稼業で紹介でもなければ一発で断られた。この足回り交換は大成功で前後16インチのゴツゴツいう感じがなくなり疲労が激減。おかげでやたらと遠くまで走るようになった。