Category :
イベント
tag :
tag :
当らない天気予報が見事にハズれて超晴天。死ぬほど暑い ! おかげで日焼けが痛い。場所は新城市湯谷温泉 蓬来山パークウェイ駐車場。目の前を飯田線が走っていたり渓谷や旅館がキレイだったり毎度のことながら良い場所選んでくれます。GK71Bクラブさん自体のイベントは前夜祭を含む一泊二日のロングラン。

ばくおん!!のおかげでスズキ追い風。…でも GSX‐Rやガンマのような当時の売れ筋は あまり出てきません。まあイイか…オモシロければ。この主催様はゲストには(我々KROGのような…)弱小チームや個人にも寛大ですがキャスト側は複数チームを束ねているにも関わらず 車種やカラーリングがビシッ!!と揃ってしかも程度極上。改造も過度ではないがレアな当時物パーツやチューンがシッカリ入ってる。初心者ってこういうのに憧れるものです。

あぁヨカった!KRがいてくれて!先発で揚陸した(私を含め)3名がKRでないばかりかスズキ・ホンダ・ヤマハと尽く他社バイクで乗り込んで来たからだ。因みに意外と違和感ないのが画面右端のKROG会長GSX‐R1000。スズキ標準カラーで見事に化けている。この白赤KRは名古屋在住KANERU‐S氏が元々所有していた車体に旧KROG会長号の外装を載せた究極合体仕様。

個人的に大好きだったGK71Fの異径一灯から再びデュアルに戻った88年頃のGK73A型。初期GSX‐Rのアイデンティティーを確立した時期でもありました。750はボア×ストロークをイジッてみたりスズキとヨシムラの苦悩や執念も伺われました。ユーザーやマスコミの賛否両論まで全てが伝説となっています。

いわゆる「辻本カラー」またはヨシムラ・トルネード風。2000年以降はスズキが純正マフラーに凝り過ぎたせいかヨシムラ需要が減って残念。当時流行った露骨なスポンサーコラボも今となっては貴重なアイコンでわかりやすい。

1984年ケルンで公開されたプロトタイプのHB(ハーベィ)カラーが印象的でしたが実は750クラスのHB仕様はありません。まだ750は大柄なツアラーのイメージで400のほうが憧れでした。ふたり鷹やバリ伝でも F‐3仕様が活躍します。

ウォルター・ウルフを初めて知ったのはタミヤのプラモデル,ウルフWR‐1が先でした。原付スクーター ”Hi” ウォルターウルフ・バージョンは乗っていたこともありました。ガンマは250Ⅲ型~と400/500にラインナップされ特にRG50Γは悔しいほどカッコ良く原付免許ライダーの憧れ。 この日最多の台数を記録したそう。

1986年頃ヤマハが確実にホンダを押えた時期があった。当時のトレンド2灯レーサーレプリカの発売が遅れ VFRやフルカバードCBRで対抗しようとしたホンダに対しヤマハは映画「汚れた英雄」と平忠彦の人気に肖るイメージ戦略が功を奏し平レプリカが峠を席巻。それでもマフラー変えるならSP忠男。

ツキギ・アレーテベルベか?等と仲間内で論争になったZX‐4。この時期の機種は今では信じられないほどモデルスパンが短くGPX400Rから大幅モデルチェンジのZX‐4は 僅か一年でZXR400に取って代わられます。更に翌89年ゼファー登場でネイキッドブーム。新型車攻勢はユーザーの想像さえ超えていました。

懐しいぃ!我が初めての原付スクーター、ホンダ・ビート!初めての腰上O/Hやマフラー焼きなどずいぶん勉強させてもらいました。空冷にコダワリ続けた初期型CBR400FやレジェンドRC30まで。昔のホンダってコスト度外視のハイメカを惜しげもなく投入して 若者が「乗りたくなる」オートバイを作ってくれました。

83~86年頃の年式ながら恐ろしくオリジナルを保ったRH250。オフロードのガンマなどと名打たれてしまったためスズキ流の超過激マシンと思いきや意外と穏やかなトルク型で燃費もイイらしい。こういうスペックの意外性もスズキらしい。
「みんなー、これからも最高のメーカー、スズキを選べー!!スズキを買えー!」

ばくおん!!のおかげでスズキ追い風。…でも GSX‐Rやガンマのような当時の売れ筋は あまり出てきません。まあイイか…オモシロければ。この主催様はゲストには(我々KROGのような…)弱小チームや個人にも寛大ですがキャスト側は複数チームを束ねているにも関わらず 車種やカラーリングがビシッ!!と揃ってしかも程度極上。改造も過度ではないがレアな当時物パーツやチューンがシッカリ入ってる。初心者ってこういうのに憧れるものです。

あぁヨカった!KRがいてくれて!先発で揚陸した(私を含め)3名がKRでないばかりかスズキ・ホンダ・ヤマハと尽く他社バイクで乗り込んで来たからだ。因みに意外と違和感ないのが画面右端のKROG会長GSX‐R1000。スズキ標準カラーで見事に化けている。この白赤KRは名古屋在住KANERU‐S氏が元々所有していた車体に旧KROG会長号の外装を載せた究極合体仕様。

個人的に大好きだったGK71Fの異径一灯から再びデュアルに戻った88年頃のGK73A型。初期GSX‐Rのアイデンティティーを確立した時期でもありました。750はボア×ストロークをイジッてみたりスズキとヨシムラの苦悩や執念も伺われました。ユーザーやマスコミの賛否両論まで全てが伝説となっています。

いわゆる「辻本カラー」またはヨシムラ・トルネード風。2000年以降はスズキが純正マフラーに凝り過ぎたせいかヨシムラ需要が減って残念。当時流行った露骨なスポンサーコラボも今となっては貴重なアイコンでわかりやすい。

1984年ケルンで公開されたプロトタイプのHB(ハーベィ)カラーが印象的でしたが実は750クラスのHB仕様はありません。まだ750は大柄なツアラーのイメージで400のほうが憧れでした。ふたり鷹やバリ伝でも F‐3仕様が活躍します。

ウォルター・ウルフを初めて知ったのはタミヤのプラモデル,ウルフWR‐1が先でした。原付スクーター ”Hi” ウォルターウルフ・バージョンは乗っていたこともありました。ガンマは250Ⅲ型~と400/500にラインナップされ特にRG50Γは悔しいほどカッコ良く原付免許ライダーの憧れ。 この日最多の台数を記録したそう。

1986年頃ヤマハが確実にホンダを押えた時期があった。当時のトレンド2灯レーサーレプリカの発売が遅れ VFRやフルカバードCBRで対抗しようとしたホンダに対しヤマハは映画「汚れた英雄」と平忠彦の人気に肖るイメージ戦略が功を奏し平レプリカが峠を席巻。それでもマフラー変えるならSP忠男。

ツキギ・アレーテベルベか?等と仲間内で論争になったZX‐4。この時期の機種は今では信じられないほどモデルスパンが短くGPX400Rから大幅モデルチェンジのZX‐4は 僅か一年でZXR400に取って代わられます。更に翌89年ゼファー登場でネイキッドブーム。新型車攻勢はユーザーの想像さえ超えていました。

懐しいぃ!我が初めての原付スクーター、ホンダ・ビート!初めての腰上O/Hやマフラー焼きなどずいぶん勉強させてもらいました。空冷にコダワリ続けた初期型CBR400FやレジェンドRC30まで。昔のホンダってコスト度外視のハイメカを惜しげもなく投入して 若者が「乗りたくなる」オートバイを作ってくれました。

83~86年頃の年式ながら恐ろしくオリジナルを保ったRH250。オフロードのガンマなどと名打たれてしまったためスズキ流の超過激マシンと思いきや意外と穏やかなトルク型で燃費もイイらしい。こういうスペックの意外性もスズキらしい。
「みんなー、これからも最高のメーカー、スズキを選べー!!スズキを買えー!」