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グルメ
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拈華山龍津寺(ねんげさんりょうしんじ)は 戦没者の爺様と遺族の婆様が眠る墓所で 子供の頃から寺といえば この龍津寺のことだった。爺様は兵役乙種の県庁職員で徴兵免除だったが 志願兵として戦地に向う途中 東シナ海で戦没。これは多少誇れることらしい。法事も墓参りもほとんど来なかった寺に今回伺うことに。

おじま分福食堂はその龍津寺さんで月一開催される地域の食材を使ったお食事会。公式には謳われてないがもちろん子供が優先。ご相伴に預かるつもりで行ったのだが驚いたことに満席。年寄りばかり目立つ田舎に子供が大勢いるのは寧ろ嬉しい誤算。ふだんスーパーやコンビニの惣菜ばかりになってしまうのは致し方ない。材料から煮炊きするのでは手間も時間も掛るし加工済み食品のほうが安く済むこともある。共働きの多い今の子供が地元の食材に触れるには良い機会だ。

その逆の問題として私が子供の頃は今ほど食生活は過剰に豊かではなかったと思う。食卓を囲むなどといっても箸や茶碗の持ち方に親はうるさく 食べ物を残すことなど許されない。兄弟がいる家は奪い合いもある。躾にうるさい家は配膳や洗い物も手伝わされる。食卓にはある種の緊張感があった。ウチの父は下戸だったが晩酌をする父親は珍しくなく食後はタバコを吸うのも当り前。そんな昔話は行き過ぎとしても大人になって会食などすると子供の頃の躾の度合いがわかる。顔を見合わせ食事をすることで 知らず知らずに庶民のテーブルマナーを覚えるわけだ。

分福とは福を分かち合うという意味だという。これは宗派に関係なく 古来こうした寺社の持つ社会的機能の一つでもある。因みに我が父は生前ミソギと称してこの寺に入門したが 厳しい僧侶の修行に耐えられず僅か数日であきらめて逃げ帰ったという笑い話を残してくれた。強者に厳しく弱者に寛大な姿こそ仏の本懐。人に尽くすことを教える。弱者から毟り取ることばかり執着する宗教団体は見習え。

ご住職が手を合わせ「いただきます」。食事に礼から入るのは日本の伝統。孤食が問題となっている昨今はそんな些細な礼節すら学ぶ機会がない。特に年長者の人間的な質が下がった現代では尚更だ。ご馳走とは客人をもてなすために食材を集めるため駆け回る様を淵源とする。食する側がその労苦に感謝することで相互扶助の関係が生まれる。こんな抹香臭い話でも子供の頃から仕込まれれば 働かずにムダ飯を喰うニートなどならずにすむ。それを教えるのが宗教の役目。

おじま分福食堂はその龍津寺さんで月一開催される地域の食材を使ったお食事会。公式には謳われてないがもちろん子供が優先。ご相伴に預かるつもりで行ったのだが驚いたことに満席。年寄りばかり目立つ田舎に子供が大勢いるのは寧ろ嬉しい誤算。ふだんスーパーやコンビニの惣菜ばかりになってしまうのは致し方ない。材料から煮炊きするのでは手間も時間も掛るし加工済み食品のほうが安く済むこともある。共働きの多い今の子供が地元の食材に触れるには良い機会だ。

その逆の問題として私が子供の頃は今ほど食生活は過剰に豊かではなかったと思う。食卓を囲むなどといっても箸や茶碗の持ち方に親はうるさく 食べ物を残すことなど許されない。兄弟がいる家は奪い合いもある。躾にうるさい家は配膳や洗い物も手伝わされる。食卓にはある種の緊張感があった。ウチの父は下戸だったが晩酌をする父親は珍しくなく食後はタバコを吸うのも当り前。そんな昔話は行き過ぎとしても大人になって会食などすると子供の頃の躾の度合いがわかる。顔を見合わせ食事をすることで 知らず知らずに庶民のテーブルマナーを覚えるわけだ。

分福とは福を分かち合うという意味だという。これは宗派に関係なく 古来こうした寺社の持つ社会的機能の一つでもある。因みに我が父は生前ミソギと称してこの寺に入門したが 厳しい僧侶の修行に耐えられず僅か数日であきらめて逃げ帰ったという笑い話を残してくれた。強者に厳しく弱者に寛大な姿こそ仏の本懐。人に尽くすことを教える。弱者から毟り取ることばかり執着する宗教団体は見習え。

ご住職が手を合わせ「いただきます」。食事に礼から入るのは日本の伝統。孤食が問題となっている昨今はそんな些細な礼節すら学ぶ機会がない。特に年長者の人間的な質が下がった現代では尚更だ。ご馳走とは客人をもてなすために食材を集めるため駆け回る様を淵源とする。食する側がその労苦に感謝することで相互扶助の関係が生まれる。こんな抹香臭い話でも子供の頃から仕込まれれば 働かずにムダ飯を喰うニートなどならずにすむ。それを教えるのが宗教の役目。