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今年2020年早春の頃、休止期間に入るにあたり指導にあったのは「今こそ研鑽に励め!」とのこと。「学ばずは卑し」「青年よ、心に読書と思索の暇を作れ」のご指導のまま、不安定ながらも多少仕事以外の時間が増えたことで小説「新・人間革命」を再度読み始めました。過去に26巻まで一度読了してはいましたが、連載終盤でもあり全巻には及ばず。また当時はお借りしたハードカバーでしたが幸い文庫版が発刊されたこともあり文庫版を自分で購入。4巻まで購入し読み終えた頃に5巻6巻を上京した序でに懐かしの博文堂書店で購入することにしました。

中央線信濃町駅は昔仕事で毎日行き来した所。仕事の時間などを調整しながら当駅で下車。宿舎が先輩と共同だったため学会本部の接遇センターに唱題に寄ったりしました。その帰りにここ博文堂書店で雑誌や書籍を購入。博文堂のブックカバーを掛けてもらうのが密かな楽しみでした。都内の仕事はほとんど電車で移動だったので車中で文庫本を開くことも多く「電車の中」が貴重な読書の時間。今に比べ労基など守られない文字通り朝から晩までの時間に追われる営業職でしたが、読書で培われる心の余裕のようなものがハードな日常を充実したものに変えてくれました。こうした名著の文章に触れることで、或いは作者をリスペクトしつつ、自分の文章力も僅かながらも養われていくものではないかと思います。

余談ですが私の母も同じ頃、巣篭りに入った同じ地区の婦人部(多宝会)の方々と話をするうちに(旧)人間革命を読み始めました。最初は「文字が小さくて無理」と言っておりましたが、新装より活字が小さい古い通常版を老眼鏡で何とか見えるようになったということです。二ヶ月で一冊ていどの私よりやや早いペースで既に数巻を読み終えています。今は拡大鏡や照明など読書や作業に特化した専用ツールが廉価であります。高齢といっても朗読版CD等は勧めませんでした。
牧口先生は獄中で、戸田先生も極度の近眼でありながら、老いて尚研鑽に励まれました。また私より後から入信した母は、学会と池田先生の執筆した書籍や新聞等の記事の量に常々驚嘆していました。私は(もったいない話ですが)この一点だけでも池田先生に師従し宣揚するに足る存在だと思います。学会はあくまで「俗」の集団ですから問題もありますし批判されることもあります。しかし、これだけ膨大な量(と質)の「生きる術」を表してくれた宗派や学派は歴史上にもありません。批判がしたいなら(批判材料として)学会の蔵書の一部でも読んでからにすれば良い。これは学会に限らず、他の教義や哲学にも言えることだと思います。

時恰もインターネットを使って匿名で誹謗中傷する犯罪が社会問題化しております。私のような者でも、このようなブログを書いておりますと、中傷どころか脅迫まで何度も遭遇しております。少し余談ですが、(こうした輩に言っておくなら)いわゆるブログはSNSではありません。ソーシャル・ネットワーク・サービスではないので、単体では伝播や拡散はしません。メディアでいうならテレビ報道と個人出版の同人誌くらい差があります。にも関わらず、こんな些細な一個人の道楽にも敵意を顕わにケチを付けてくる者もいます。それには私が多少「アクセス数」を稼いでしまったことに対するヒガミがあるのでしょう。精神的に満たされない犯罪者ほど、強い劣等感を心中に宿してしまいます。近年これに準じた殺人事件もありました。

文章だけでなく写真や動画まで誰でも気軽に公開できるのは良いことかもしれません。喋ることや文字を書くのが下手だった私は、この恩恵を人一倍享受している一人でもあります。ただ文章であれ、その他の媒体であっても、書く者には責任と覚悟が必要になります。それはSNSのような無責任なコトバ遊びではなく、書いたことに対し評価や批判を受ける覚悟と言えましょう。
自粛期間中の8月中旬、聖教新聞方面版に某会員の記事が掲載されました。おそらく本人以外の者が口述筆記のかたちで代筆したであろうこの記事、僅か400字の中に思惑の違う二名が文字を詰め込もうとしたため、ずいぶん前のめりなお話になっていました。仮に、全て自分で作文した文章や、人前で原稿を読むような場面なら、ここまで大袈裟にできなかったでしょう。本人は少しでも多くの話題を盛り込みたい。代筆者は限られた字数をドラマ仕立てに演出したい。その序でに学会の話題を入れなければならない。体験は素朴に、何より正直でなければ人に伝わりません。残念ながら現在横行しているこうした大見得を切った自慢話は、かえって筆者を追い詰めることになるでしょう。

私はとても新聞に載るような者ではないので、文章を書く練習のつもりでブログや同人を書いています。私のブログをチラ見しては何かとケチを付けてくるオヤジ連中もいますが、揚げ足を取るヒマがあったら、自らHPなりSNSでアクセス数を獲得してくれれば良いこと。自ら「ペンの闘志」を自負する者なら尚更。同じ目標を目指すなら、その方途は違っても対立はしないはずです。
とはいえ、「人は自分を映す鏡」と云います。いつまでも批判や揚げ足取りに付き合わされては、こちらも一生が終わってしまいます。そのためには、此方の意識や境涯を高めていくしかありません。その鍛えの手段の一つが読書であると思います。名文を書いて、アクセス数を稼いでインフルエンサーになるつもりはありません。アフィリエイトは稼ぎたいと思っていますが、ウソや誇張しても長続きしないでしょう。そんなこんなと考え合わせてみると、巣籠りもまんざら悪くもなかったかもしれません。
ただしこれは怪我の功名という意味で、友人知人に自由に会えないのは辛いもの。明年こそコロナ禍の病魔が収束せんことを、小池百合子の妄言のように「コロナといっしょに暮らす」のではなく、駆逐されることを真に願っています。

中央線信濃町駅は昔仕事で毎日行き来した所。仕事の時間などを調整しながら当駅で下車。宿舎が先輩と共同だったため学会本部の接遇センターに唱題に寄ったりしました。その帰りにここ博文堂書店で雑誌や書籍を購入。博文堂のブックカバーを掛けてもらうのが密かな楽しみでした。都内の仕事はほとんど電車で移動だったので車中で文庫本を開くことも多く「電車の中」が貴重な読書の時間。今に比べ労基など守られない文字通り朝から晩までの時間に追われる営業職でしたが、読書で培われる心の余裕のようなものがハードな日常を充実したものに変えてくれました。こうした名著の文章に触れることで、或いは作者をリスペクトしつつ、自分の文章力も僅かながらも養われていくものではないかと思います。

余談ですが私の母も同じ頃、巣篭りに入った同じ地区の婦人部(多宝会)の方々と話をするうちに(旧)人間革命を読み始めました。最初は「文字が小さくて無理」と言っておりましたが、新装より活字が小さい古い通常版を老眼鏡で何とか見えるようになったということです。二ヶ月で一冊ていどの私よりやや早いペースで既に数巻を読み終えています。今は拡大鏡や照明など読書や作業に特化した専用ツールが廉価であります。高齢といっても朗読版CD等は勧めませんでした。
牧口先生は獄中で、戸田先生も極度の近眼でありながら、老いて尚研鑽に励まれました。また私より後から入信した母は、学会と池田先生の執筆した書籍や新聞等の記事の量に常々驚嘆していました。私は(もったいない話ですが)この一点だけでも池田先生に師従し宣揚するに足る存在だと思います。学会はあくまで「俗」の集団ですから問題もありますし批判されることもあります。しかし、これだけ膨大な量(と質)の「生きる術」を表してくれた宗派や学派は歴史上にもありません。批判がしたいなら(批判材料として)学会の蔵書の一部でも読んでからにすれば良い。これは学会に限らず、他の教義や哲学にも言えることだと思います。

時恰もインターネットを使って匿名で誹謗中傷する犯罪が社会問題化しております。私のような者でも、このようなブログを書いておりますと、中傷どころか脅迫まで何度も遭遇しております。少し余談ですが、(こうした輩に言っておくなら)いわゆるブログはSNSではありません。ソーシャル・ネットワーク・サービスではないので、単体では伝播や拡散はしません。メディアでいうならテレビ報道と個人出版の同人誌くらい差があります。にも関わらず、こんな些細な一個人の道楽にも敵意を顕わにケチを付けてくる者もいます。それには私が多少「アクセス数」を稼いでしまったことに対するヒガミがあるのでしょう。精神的に満たされない犯罪者ほど、強い劣等感を心中に宿してしまいます。近年これに準じた殺人事件もありました。

文章だけでなく写真や動画まで誰でも気軽に公開できるのは良いことかもしれません。喋ることや文字を書くのが下手だった私は、この恩恵を人一倍享受している一人でもあります。ただ文章であれ、その他の媒体であっても、書く者には責任と覚悟が必要になります。それはSNSのような無責任なコトバ遊びではなく、書いたことに対し評価や批判を受ける覚悟と言えましょう。
自粛期間中の8月中旬、聖教新聞方面版に某会員の記事が掲載されました。おそらく本人以外の者が口述筆記のかたちで代筆したであろうこの記事、僅か400字の中に思惑の違う二名が文字を詰め込もうとしたため、ずいぶん前のめりなお話になっていました。仮に、全て自分で作文した文章や、人前で原稿を読むような場面なら、ここまで大袈裟にできなかったでしょう。本人は少しでも多くの話題を盛り込みたい。代筆者は限られた字数をドラマ仕立てに演出したい。その序でに学会の話題を入れなければならない。体験は素朴に、何より正直でなければ人に伝わりません。残念ながら現在横行しているこうした大見得を切った自慢話は、かえって筆者を追い詰めることになるでしょう。

私はとても新聞に載るような者ではないので、文章を書く練習のつもりでブログや同人を書いています。私のブログをチラ見しては何かとケチを付けてくるオヤジ連中もいますが、揚げ足を取るヒマがあったら、自らHPなりSNSでアクセス数を獲得してくれれば良いこと。自ら「ペンの闘志」を自負する者なら尚更。同じ目標を目指すなら、その方途は違っても対立はしないはずです。
とはいえ、「人は自分を映す鏡」と云います。いつまでも批判や揚げ足取りに付き合わされては、こちらも一生が終わってしまいます。そのためには、此方の意識や境涯を高めていくしかありません。その鍛えの手段の一つが読書であると思います。名文を書いて、アクセス数を稼いでインフルエンサーになるつもりはありません。アフィリエイトは稼ぎたいと思っていますが、ウソや誇張しても長続きしないでしょう。そんなこんなと考え合わせてみると、巣籠りもまんざら悪くもなかったかもしれません。
ただしこれは怪我の功名という意味で、友人知人に自由に会えないのは辛いもの。明年こそコロナ禍の病魔が収束せんことを、小池百合子の妄言のように「コロナといっしょに暮らす」のではなく、駆逐されることを真に願っています。