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日本中が今だコロナ第二派に怯えていた2020年10月、航空自衛隊百里基地を飛び立ったF-4EJの一機が浜松基地に降り立った。国内でF-4を最後まで運用してきた第301飛行隊の最後の一機のラストフライトだった。
この百里基地第301飛行隊の一機440号機と、翌2021年3月岐阜基地の飛行開発実験団のF-4EJ(改)の運用終了を以って、半世紀の間、日本の空を守り続けた航空自衛隊のF-4EJファントムⅡは、その全機の運用が終了。
大阪万博が終わって、沖縄が返還された翌年、1973年の配備開始。激動の昭和・平成に防空の任を全うしたF-4の一機は、ここ浜松基地の広報館に永久展示のため改修。2021年5月から一般公開されている。

F-4には「ファントムⅡ」というニックネームがある。この固有名を付けることは無線通話等での記号や数字の聞き間違い防止のためよく使われる手法だ。F-4は、マクドネル社が開発したF1Hファントム、F2Hバンシー、F3Hデーモンから順当に発展させた機体。戦後間もない1950年代はシミュレーションなどなく模型を使った風洞実験しか空力試験の手段がなかった時代。音速の前後は空力特性が極端に変わるため、既存の機体を少しずつ改良していくのが、当時の設計の常道だった。

F-4は、前型である単発の「F3Hデーモン」の翼配置をそのまま、エンジンを双発化、複座化し機体を大型化した、。双発・複座はレーダーや火器管制装置など初期のECMを搭載したためだ。1954年モックアップ完成。1958年5月27日初飛行。実機の飛行試験の結果、超音速機動時の水平尾翼の利きを確保するため下反角が付けられた。そのままだと横転性能に影響するため、主翼外側に上反角を取る。F-4はもともと艦載機のため、外翼部分は折りたたみ構造になっており、この改良の手間は少ないと思われる。

1950年代はレーダーと誘導ミサイルの発達により、機関砲を使った空中戦は無くなるものと想定された。この「ミサイル万能論」の結果、設計段階から機関砲を装備しない戦闘機が増える。F4も武装はミサイルのみだが、空軍用E型から機種下部にバルジを設け20㎜バルカン砲を追加装備。かくしていわゆる「F4ファントム」のユニークなシルエットが完成。初飛行は1958年5月。当時の戦闘機としては空前の大型機で、太い胴体に度々手直しされた奇怪な翼配置は「みにくいアヒルの子」と呼ばれたという。

量産にこぎ付けたF-4を待っていたのは「ベトナム戦争」だった。空中戦よりも爆撃任務が多い局地戦に、搭載量の大きいF-4は海軍から大歓迎で受け入れられる。また既に始まっていた激しい消耗戦で、損耗の補充に悩む空軍からも大量のオファーが掛る。主な作戦任務は共に空爆。前述通り爆撃機なみの搭載量と本来の戦闘機の空戦性能を合わせ持つF-4は、文字通り「戦闘爆撃機」の元祖となった。ジャングルに潜むベトコンを掃討するため、今では使用が制限されているボール爆弾などのクラスター爆弾や、同じく焼夷兵器のナパーム弾を大量に使用。F-4は誕生直後からベトナムという厳しい戦場で鍛えられ、ベトナム戦争の申し子として成長していく。

一方で高性能を期待されながらベトナムで空爆に使えない迎撃戦闘機F-104は、申し訳程度の爆撃能力を付与され、同盟国にバーゲンセールで放出される。爆撃能力が低く要撃能力が高いF-104のスペックは、我が国や西ドイツ等の条件に合致し導入が進んだ。導入後に発覚したのは、運動性能が低く、エンジンが単発のF-104は、北米に比べ気象条件の厳しい欧州等では事故が多発。早々に後継機を望む結果となった。この折、F-104と同じJ79ターボジェットエンジンを双発で搭載するF-4の信頼性や整備補給面での優位が、選考の要件として働いたであろうことは想像に難くない。
J79エンジンはF-104に初めて採用され高性能を発揮。F-4に搭載されたことで西側陣営に広く普及。生産機数は17000基に登り、今も第三世界を中心に多数が稼働。我が国では石川島播磨重工でライセンス生産され、その技術は住友金属工業で製造された0系新幹線の車軸設計にも応用された。
実戦で得た高い信頼性と汎用性を持って世界中で運用されたF-4も、ベトナム戦争が終結し冷戦下とはいえ世界が落ち着きを取り戻した70年代後半、日本国内で起こったある事件から陰りが見えた。
1976年(昭和51年)9月6日、午後一時半過ぎ、旧ソ連防空軍所属のMiG-25戦闘機の一機が日本領空に侵入、函館空港に強行着陸。パイロットのヴィクトール・ベレンコ中尉が亡命を申出。この事件が世界を震撼させた。

1310時頃、領空に接近する機影をレーダーサイトが捕捉。1320時頃、航空自衛隊千歳基地のF-4EJがスクランブル発進。1322時、北海道の茂津田岬(小樽市南西約20キロメートル)の沖合上空で領空侵入。1350時、ミグ25は函館上空を3回旋回した後、函館空港に着陸した。その間、千歳基地のF-4EJがミグを追跡するが、低空を飛ぶミグに対しF-4のレーダー波がシークラッター(海面乱反射)を起こしロスト(所説あり)。追跡に失敗した。
この事件で日本政府は大混乱に陥り、米国主導で機体の返還交渉が行われる。当時の最新鋭機とはいえいとも簡単に領空通過を許してしまった西側の主力戦闘機F-4の評価は地に落ちた。ベトナムで大損害を受けた米軍は、戦訓を取り入れた新型機の開発を加速させることになる。中でもいち早く初飛行しベトナム撤退戦にも参加したF-14は、パリ・航空ショーでF-4との模擬空戦を披露。ローリング・シザーという高等戦技でF-4の後方に回り込みロックオン。世界が注目する中、新時代の空中戦を印象付けた。

F-14は華々しいデビュー当初からメディア露出も多く、映画「ファイナル・カウントダウン」で常識外の空中機動を見せたかと思えば、「トップガン」アカデミー賞クラスの大活躍をする。戦争が終わったと思ったら、時代遅れの烙印を捺されてしまったF-4は、その頃から日本国内でも大ヒットを更新し続けるハリウッド映画でも登場することは少ない。

1982年公開、クリント・イーストウッド主演のアクション映画「ファイヤーフォックス」は、ハリウッド伝統の実物の軍用機を惜しげもなく飛ばす壮大なロケと、スターウォーズ以来発達著しいCGによるSFX(スペシャルエフェクト)が渾然一体となった名作(だと思う)が、実機のF-4が訓練シーンで登場する他、架空の戦闘機「ミグ31ファイヤーフォックス」の撮影用実物大モデルの主翼部分にF-4の主翼部品が使われている。この映画の作者クレイグ・トーマスは、先の日本で起きた「ミグ25亡命事件」にインスピレーションを得て、原作を執筆する際に、アメリカに亡命したヴィクトール・ベレンコに面会し、インタヴューをしているという。
閑話休題。ベトナムで大敗したアメリカ軍は、装備の近代化を急ぐと共に、徴兵を廃止し志願制に移行した軍のイメージアップのため、ハリウッドへの全面協力を惜しまなかった。実際、米軍の新装備はSF映画と見紛うほど斬新でかつ強力なものばかりだった。
1982年の「56中業」(昭和56年度中期業務見積り)に計上される次期主力戦闘機選定計画(FX計画)には、F-14、F-15、の他、当時まだ試験段階だったYF-16や後にF-18となるYF-17まで盛り込まれ、それにミラージュF1、開発途中のサーブJ37ヴィゲン、同じくトーネードIDSまでが候補入りし、官民巻き込んだ大論争と化していた。
この最中に当時絶大な影響力を持っていた少年誌にF-4をメインに据えた怪作が現れる。新谷かおる先生の「ファントム無頼」。連載誌は週間少年サンデー。当時まだ地味で堅物なイメージだった自衛隊を、真正面からコミカルに演出して人気を博す。新谷作品は「エリア88」も同様、多少考証が怪しい部分もあったが、それに目をつぶっても余りあるドラマ性に満ちた名作。原作者の「武論尊」先生は空自の入隊経験もあり、それでも少女漫画家だった新谷を起用したことの何かの意図を感じる。

作中で神田と栗原が搭乗するF-4はフィクションらしく神がった性能を発揮することもあるが、百里基地の第305飛行隊は実在する部隊で戦競でも度々優勝する実力派だった。部隊はその後、新田原基地に移駐するが、百里基地はF-4を最後まで運用した基地となった。

要撃任務がF-15Jに移行する中で、百里基地のF-4は写真偵察型のRF-4EJが主体となり、北海道胆振東部地震など大災害の初期の状況把握等の任務を最後まで遂行し続ける。空自で最も古い作戦用機となったF-4は、現行機に比べて操縦が難しく、F-4のパイロットは「ファントム・ライダー」と呼ばれ、尊敬を集めていたという。

この百里基地第301飛行隊の一機440号機と、翌2021年3月岐阜基地の飛行開発実験団のF-4EJ(改)の運用終了を以って、半世紀の間、日本の空を守り続けた航空自衛隊のF-4EJファントムⅡは、その全機の運用が終了。
大阪万博が終わって、沖縄が返還された翌年、1973年の配備開始。激動の昭和・平成に防空の任を全うしたF-4の一機は、ここ浜松基地の広報館に永久展示のため改修。2021年5月から一般公開されている。

F-4には「ファントムⅡ」というニックネームがある。この固有名を付けることは無線通話等での記号や数字の聞き間違い防止のためよく使われる手法だ。F-4は、マクドネル社が開発したF1Hファントム、F2Hバンシー、F3Hデーモンから順当に発展させた機体。戦後間もない1950年代はシミュレーションなどなく模型を使った風洞実験しか空力試験の手段がなかった時代。音速の前後は空力特性が極端に変わるため、既存の機体を少しずつ改良していくのが、当時の設計の常道だった。

F-4は、前型である単発の「F3Hデーモン」の翼配置をそのまま、エンジンを双発化、複座化し機体を大型化した、。双発・複座はレーダーや火器管制装置など初期のECMを搭載したためだ。1954年モックアップ完成。1958年5月27日初飛行。実機の飛行試験の結果、超音速機動時の水平尾翼の利きを確保するため下反角が付けられた。そのままだと横転性能に影響するため、主翼外側に上反角を取る。F-4はもともと艦載機のため、外翼部分は折りたたみ構造になっており、この改良の手間は少ないと思われる。

1950年代はレーダーと誘導ミサイルの発達により、機関砲を使った空中戦は無くなるものと想定された。この「ミサイル万能論」の結果、設計段階から機関砲を装備しない戦闘機が増える。F4も武装はミサイルのみだが、空軍用E型から機種下部にバルジを設け20㎜バルカン砲を追加装備。かくしていわゆる「F4ファントム」のユニークなシルエットが完成。初飛行は1958年5月。当時の戦闘機としては空前の大型機で、太い胴体に度々手直しされた奇怪な翼配置は「みにくいアヒルの子」と呼ばれたという。

量産にこぎ付けたF-4を待っていたのは「ベトナム戦争」だった。空中戦よりも爆撃任務が多い局地戦に、搭載量の大きいF-4は海軍から大歓迎で受け入れられる。また既に始まっていた激しい消耗戦で、損耗の補充に悩む空軍からも大量のオファーが掛る。主な作戦任務は共に空爆。前述通り爆撃機なみの搭載量と本来の戦闘機の空戦性能を合わせ持つF-4は、文字通り「戦闘爆撃機」の元祖となった。ジャングルに潜むベトコンを掃討するため、今では使用が制限されているボール爆弾などのクラスター爆弾や、同じく焼夷兵器のナパーム弾を大量に使用。F-4は誕生直後からベトナムという厳しい戦場で鍛えられ、ベトナム戦争の申し子として成長していく。

一方で高性能を期待されながらベトナムで空爆に使えない迎撃戦闘機F-104は、申し訳程度の爆撃能力を付与され、同盟国にバーゲンセールで放出される。爆撃能力が低く要撃能力が高いF-104のスペックは、我が国や西ドイツ等の条件に合致し導入が進んだ。導入後に発覚したのは、運動性能が低く、エンジンが単発のF-104は、北米に比べ気象条件の厳しい欧州等では事故が多発。早々に後継機を望む結果となった。この折、F-104と同じJ79ターボジェットエンジンを双発で搭載するF-4の信頼性や整備補給面での優位が、選考の要件として働いたであろうことは想像に難くない。

J79エンジンはF-104に初めて採用され高性能を発揮。F-4に搭載されたことで西側陣営に広く普及。生産機数は17000基に登り、今も第三世界を中心に多数が稼働。我が国では石川島播磨重工でライセンス生産され、その技術は住友金属工業で製造された0系新幹線の車軸設計にも応用された。
実戦で得た高い信頼性と汎用性を持って世界中で運用されたF-4も、ベトナム戦争が終結し冷戦下とはいえ世界が落ち着きを取り戻した70年代後半、日本国内で起こったある事件から陰りが見えた。
1976年(昭和51年)9月6日、午後一時半過ぎ、旧ソ連防空軍所属のMiG-25戦闘機の一機が日本領空に侵入、函館空港に強行着陸。パイロットのヴィクトール・ベレンコ中尉が亡命を申出。この事件が世界を震撼させた。

1310時頃、領空に接近する機影をレーダーサイトが捕捉。1320時頃、航空自衛隊千歳基地のF-4EJがスクランブル発進。1322時、北海道の茂津田岬(小樽市南西約20キロメートル)の沖合上空で領空侵入。1350時、ミグ25は函館上空を3回旋回した後、函館空港に着陸した。その間、千歳基地のF-4EJがミグを追跡するが、低空を飛ぶミグに対しF-4のレーダー波がシークラッター(海面乱反射)を起こしロスト(所説あり)。追跡に失敗した。
この事件で日本政府は大混乱に陥り、米国主導で機体の返還交渉が行われる。当時の最新鋭機とはいえいとも簡単に領空通過を許してしまった西側の主力戦闘機F-4の評価は地に落ちた。ベトナムで大損害を受けた米軍は、戦訓を取り入れた新型機の開発を加速させることになる。中でもいち早く初飛行しベトナム撤退戦にも参加したF-14は、パリ・航空ショーでF-4との模擬空戦を披露。ローリング・シザーという高等戦技でF-4の後方に回り込みロックオン。世界が注目する中、新時代の空中戦を印象付けた。

F-14は華々しいデビュー当初からメディア露出も多く、映画「ファイナル・カウントダウン」で常識外の空中機動を見せたかと思えば、「トップガン」アカデミー賞クラスの大活躍をする。戦争が終わったと思ったら、時代遅れの烙印を捺されてしまったF-4は、その頃から日本国内でも大ヒットを更新し続けるハリウッド映画でも登場することは少ない。

1982年公開、クリント・イーストウッド主演のアクション映画「ファイヤーフォックス」は、ハリウッド伝統の実物の軍用機を惜しげもなく飛ばす壮大なロケと、スターウォーズ以来発達著しいCGによるSFX(スペシャルエフェクト)が渾然一体となった名作(だと思う)が、実機のF-4が訓練シーンで登場する他、架空の戦闘機「ミグ31ファイヤーフォックス」の撮影用実物大モデルの主翼部分にF-4の主翼部品が使われている。この映画の作者クレイグ・トーマスは、先の日本で起きた「ミグ25亡命事件」にインスピレーションを得て、原作を執筆する際に、アメリカに亡命したヴィクトール・ベレンコに面会し、インタヴューをしているという。
閑話休題。ベトナムで大敗したアメリカ軍は、装備の近代化を急ぐと共に、徴兵を廃止し志願制に移行した軍のイメージアップのため、ハリウッドへの全面協力を惜しまなかった。実際、米軍の新装備はSF映画と見紛うほど斬新でかつ強力なものばかりだった。
1982年の「56中業」(昭和56年度中期業務見積り)に計上される次期主力戦闘機選定計画(FX計画)には、F-14、F-15、の他、当時まだ試験段階だったYF-16や後にF-18となるYF-17まで盛り込まれ、それにミラージュF1、開発途中のサーブJ37ヴィゲン、同じくトーネードIDSまでが候補入りし、官民巻き込んだ大論争と化していた。
この最中に当時絶大な影響力を持っていた少年誌にF-4をメインに据えた怪作が現れる。新谷かおる先生の「ファントム無頼」。連載誌は週間少年サンデー。当時まだ地味で堅物なイメージだった自衛隊を、真正面からコミカルに演出して人気を博す。新谷作品は「エリア88」も同様、多少考証が怪しい部分もあったが、それに目をつぶっても余りあるドラマ性に満ちた名作。原作者の「武論尊」先生は空自の入隊経験もあり、それでも少女漫画家だった新谷を起用したことの何かの意図を感じる。

作中で神田と栗原が搭乗するF-4はフィクションらしく神がった性能を発揮することもあるが、百里基地の第305飛行隊は実在する部隊で戦競でも度々優勝する実力派だった。部隊はその後、新田原基地に移駐するが、百里基地はF-4を最後まで運用した基地となった。

要撃任務がF-15Jに移行する中で、百里基地のF-4は写真偵察型のRF-4EJが主体となり、北海道胆振東部地震など大災害の初期の状況把握等の任務を最後まで遂行し続ける。空自で最も古い作戦用機となったF-4は、現行機に比べて操縦が難しく、F-4のパイロットは「ファントム・ライダー」と呼ばれ、尊敬を集めていたという。