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オートバイ
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FZR250と言えば「疾風伝説 特攻の拓」と昔から決まっている!…いや、あれは後期型だっけ?。ケニー・ロバーツ号などと称しているが、時系列から考えて 親父のほうだろう。作者の歳がわかる。今日 やっとエンジンが掛った!これでワシも「爆音小僧」にデビューじゃあぁ!

「脚が付いていないが…」、「あんなの飾りです。偉い人にはそれがわからんのですよ」…というわけにもいくまい。バラしてバイク屋に頼んだものもあれば、自室に持ち込んで磨いたり塗ったりしている。作業のレベルが昔とあまり変ってないが、それもアリかと思っている。その妥協点を少しだけ上げるのが今回のテーマ。
仕事として"興し"をやっている時からわかってはいたが 「エンジン不動」とエンジン実動車では、外見に関わらず相場(ヤフオクの落札価格)が数倍も違う。当然といえば当然だが、このへんから「ヤル気」が一気に上がってきてしまう。車検のための代車のつもりだったが「250もワルくない?」なと。
「オレが ”魍魎”の武丸だよぅ… 待ったぜぇ!! この瞬間をよォ!!」
80年代の250ccは、当時は400以上の車検がやたらとうるさく 費用も掛ったため、それを嫌うユーザーには支持されていた。だが、90年代半ばくらいからか、例の規制緩和のため、マフラー等のアフターパーツを付けたままでも車検が通るようになった。さらに大型免許が教習所でも取得できるようになったため、憧れの400さえ微妙な立場になった。そしてバイクブームは去った。
レーサーレプリカが全盛の頃は、「峠」という峠は土曜の深夜はバイクと四輪が入り乱れてのサーキット状態だった。当然、事故は日常茶飯事だったし 自爆や立ちゴケなどは当たり前だった。四輪なら「修復歴無しのハチロク」などは異常に高値だし、同様にノーマルのNSR250も希少だ。走行距離が少ないのも「メーター戻し」が完全に違法になった昨今では査定を吊り上げる要因になっている。
20年以上も前の、ドノーマル、低走行距離車というのは「大事に乗られていた」か「長期放置されていた」の、どちらかだ。普通に乗られているなら まだイイほうだ。動かさなければ 錆や腐食は間違いなく進んでいる。樹脂類は硬化している。オイルやグリスも劣化するから金属でも固着を起こす。見た目は「新車同然」でも20年も動かしてなければ、磨耗はしていないが、確実に痛んでいるはずだ。
ずいぶん苦労はしたが、それでも表面的なサビなどは磨けば取れる。これなら努力次第だろう。これから問題になってきそうな部分が「シール類」等だと思う。これらは外側からは その縁の部分しか見えない。ところが その場所によってはかなりの圧力が掛る部分でもある。動き始めてから それが「抜ける」のはコワイ。自分のバイクや車なら冗談ですむが、人様が乗っている物では責任が持てない。レストアという分野が、なかなか商売にできないのは そんな理由ではないか?
最近は 雑誌やネットでも レストアに関する記事が氾濫している。 昔と違って良いショップも多いし その情報も豊富。 個人でやっている方もレベルが高い。だが、そうした溢れ捲る情報にばかり溺れて、自分の基準のようなものを忘れてしまっていたようにも思う。 旨い話は 山ほどあるが、現実的に手の届く範囲は案外狭いものだ。それ以外は所詮「絵に描いた餅」に過ぎない、と思ったりする。
"サンドブラスト"だとか"リプロパーツ"とか 高度な手段は逆に いくらでもある。補修するより ヤフオクで買ってしまったほうが 手間が掛らない部品も たくさん(ほとんど)あった。そんなこんなで 途中で挫折して手放(処分) したことも多い。飾って置くのであっても、完成せずに放ってしまっては 本末転倒というより 単に時間の無駄だったという事になるだろう。どの辺りを「完成」とするか?というのは、自分の価値観や用途などに因る。全て「新同」では何時まで経っても完成しない。
海外のレストアのレベルは確かに日本の比ではない。ものすごく高い。 反面、旧い車やバイクをボロボロのまま乗り回すスタイルも、なぜか様になっている。「外人だから…」といってしまえば それまでだが、やはりそこには 彼らの長年培ってきたであろう生活様式のようなものを感じる。そこが日本人は少々弱い。「古い車やバイクに乗る」というスタイル自体が、未だ中途半端な気がする。「中古はカッコ悪い」という風習は確かにあったし、「カネが無いから…」というのも否定できない。だが、実際は「旧車はカネが掛る」というのも本当の話。「そこを安く済ませたい」ところの、妥協点を持主がどの辺りに定めるか?が持主本人の希望と自己責任に掛ってくる、というのが「これから」ではないか?

「脚が付いていないが…」、「あんなの飾りです。偉い人にはそれがわからんのですよ」…というわけにもいくまい。バラしてバイク屋に頼んだものもあれば、自室に持ち込んで磨いたり塗ったりしている。作業のレベルが昔とあまり変ってないが、それもアリかと思っている。その妥協点を少しだけ上げるのが今回のテーマ。
仕事として"興し"をやっている時からわかってはいたが 「エンジン不動」とエンジン実動車では、外見に関わらず相場(ヤフオクの落札価格)が数倍も違う。当然といえば当然だが、このへんから「ヤル気」が一気に上がってきてしまう。車検のための代車のつもりだったが「250もワルくない?」なと。
「オレが ”魍魎”の武丸だよぅ… 待ったぜぇ!! この瞬間をよォ!!」
80年代の250ccは、当時は400以上の車検がやたらとうるさく 費用も掛ったため、それを嫌うユーザーには支持されていた。だが、90年代半ばくらいからか、例の規制緩和のため、マフラー等のアフターパーツを付けたままでも車検が通るようになった。さらに大型免許が教習所でも取得できるようになったため、憧れの400さえ微妙な立場になった。そしてバイクブームは去った。
レーサーレプリカが全盛の頃は、「峠」という峠は土曜の深夜はバイクと四輪が入り乱れてのサーキット状態だった。当然、事故は日常茶飯事だったし 自爆や立ちゴケなどは当たり前だった。四輪なら「修復歴無しのハチロク」などは異常に高値だし、同様にノーマルのNSR250も希少だ。走行距離が少ないのも「メーター戻し」が完全に違法になった昨今では査定を吊り上げる要因になっている。
20年以上も前の、ドノーマル、低走行距離車というのは「大事に乗られていた」か「長期放置されていた」の、どちらかだ。普通に乗られているなら まだイイほうだ。動かさなければ 錆や腐食は間違いなく進んでいる。樹脂類は硬化している。オイルやグリスも劣化するから金属でも固着を起こす。見た目は「新車同然」でも20年も動かしてなければ、磨耗はしていないが、確実に痛んでいるはずだ。
ずいぶん苦労はしたが、それでも表面的なサビなどは磨けば取れる。これなら努力次第だろう。これから問題になってきそうな部分が「シール類」等だと思う。これらは外側からは その縁の部分しか見えない。ところが その場所によってはかなりの圧力が掛る部分でもある。動き始めてから それが「抜ける」のはコワイ。自分のバイクや車なら冗談ですむが、人様が乗っている物では責任が持てない。レストアという分野が、なかなか商売にできないのは そんな理由ではないか?
最近は 雑誌やネットでも レストアに関する記事が氾濫している。 昔と違って良いショップも多いし その情報も豊富。 個人でやっている方もレベルが高い。だが、そうした溢れ捲る情報にばかり溺れて、自分の基準のようなものを忘れてしまっていたようにも思う。 旨い話は 山ほどあるが、現実的に手の届く範囲は案外狭いものだ。それ以外は所詮「絵に描いた餅」に過ぎない、と思ったりする。
"サンドブラスト"だとか"リプロパーツ"とか 高度な手段は逆に いくらでもある。補修するより ヤフオクで買ってしまったほうが 手間が掛らない部品も たくさん(ほとんど)あった。そんなこんなで 途中で挫折して手放(処分) したことも多い。飾って置くのであっても、完成せずに放ってしまっては 本末転倒というより 単に時間の無駄だったという事になるだろう。どの辺りを「完成」とするか?というのは、自分の価値観や用途などに因る。全て「新同」では何時まで経っても完成しない。
海外のレストアのレベルは確かに日本の比ではない。ものすごく高い。 反面、旧い車やバイクをボロボロのまま乗り回すスタイルも、なぜか様になっている。「外人だから…」といってしまえば それまでだが、やはりそこには 彼らの長年培ってきたであろう生活様式のようなものを感じる。そこが日本人は少々弱い。「古い車やバイクに乗る」というスタイル自体が、未だ中途半端な気がする。「中古はカッコ悪い」という風習は確かにあったし、「カネが無いから…」というのも否定できない。だが、実際は「旧車はカネが掛る」というのも本当の話。「そこを安く済ませたい」ところの、妥協点を持主がどの辺りに定めるか?が持主本人の希望と自己責任に掛ってくる、というのが「これから」ではないか?