Category :
NEWS
tag :
tag :
1980年(昭和55年)5月12日、池田先生は、関西・中部指導の帰路、静岡文化会館(静岡平和会館)を訪問される。その一報は当日の午後3時頃、「静岡に寄ります。男子部を訓練しよう。」と、先生が乗られた新幹線の車中から静岡の同志に伝えられた。同日午後6時、当時1圏10本部52部(支部)体制の男子部部長の内49名が当時の静岡文化会館に結集する。

勤行(方便品自我偈)の後、記念撮影。席上先生は以下4点にわたり指導された。①正法広布の後継を頼む。②今こそ信心修行の労苦を忘れるな。③「身は軽く法は重し」とのご教示を銘記されたい。④社会と職場で勝利者たれ。
翌13日、同じく静文での勤行会席上、池田先生は以下の指導をされた。
「功労者のお見舞いもあって、この地に寄せていただいた。近年、何かとご苦労やご心配をおかけし申しわけなく思っている。
社会は競争であり、複雑で厳しいものだ。だれ人も幸福にしてはくれない。幸福を確立するもしないも自分自身なのである。
結局は御本尊への強い祈りしかない。
信心の目的は一生成仏にあるといってよい。ゆえに信心は強盛でなくてはいけない。人間、弱い心ではつねに縁に紛動され、苦しみ多き人生となる。
私たちは、確固たる信念と強き信心で、一日一日を勝ち取り、充実の人生としたいものである。仏法は境涯を開くためのものである。
動物は境涯を開くことができない。人間のみが境涯を開いていくことができるのである。境涯のいかんによって、その人の人格的価値は決まってしまうものだ。
いま、私たちは、大御本尊を拝し、無二の信心をもって勤行・唱題することによって、はじめて自身の境涯を開き、慈愛もわき、生活の豊かさも、事業等での信頼感もましていくことができるのである。
御本尊に題目を唱えられること自体が幸せなのである。たとえ、どのような境遇にあっても、唱題は人生万般の源泉である。
ゆえに、勤行・唱題を持続していくところに功徳はつまれ、かならずや生活のうえに実証を示していくことができる。これを確信することが信心である。
現在の立場が不遇であるからといって、御本尊を疑ったり、勤行・唱題をおろそかにすれば、功徳が現れないのは当然の理である。」
1980年(昭和55年)5月12日 静岡文化会館(静岡平和会館)
いわゆる「会長勇退」から僅か一年に満たない頃。創価学会会長は第四代北条浩である。マスコミや反逆者等に追われ先生は会合にさえ自由に出席できなかった。後年のそれに比べ、一見素っ気ない、なにか突き放すような「指導」も、不自由な中で会員の身を案じ要点だけを述べたものに違いない。

直後の1980年(昭和55年)6月には55年衆参ダブル選挙、翌昭和56年には月刊ペン事件地裁差し戻し審。学会と池田先生と取り巻く状況依然厳しかった。こうした悪辣な中傷と重苦しい風評に対する反転攻勢が現在に続く「大文化祭運動」となって開花する。閉鎖的な儀式に固執する宗門に付け入る隙を与えぬ文化芸術運動は全国に波及。
五年後の昭和60年(1985年)9月、静岡でも「第1回静岡青年平和文化祭」が開催された。当時の「静岡広布史指導集」にその時の先生の指導が以下の様に記されている。
「名誉会長は文化祭の淵源と由来にふれ、昭和29年、日大グラウンドで「世紀の祭典」が開催されて以来、数々の歴史と伝統を刻みながら、平和と文化をうたいあげる文化祭運動となったことを語った。更に次代を担いゆく青年達に対して、青春時代の行き方に言及。社会の荒波の中で、苦労し、努力し、信念の道を歩み人生を築き上げてきた人達の言葉を引きながら 『人生を要領よく生きる人もいるだろう。 しかし、青春時代には、自分を厳しく鍛え、苦労していくことを忘れてはいけない。青春時代の苦労、鍛えは、人生の原動力を大きく強め、未来の宝となりゆくことを心に刻んでいただきたい。』と望んだ。そして、この日の出演者全員が、2001年に再開して、この会場で記念の集いを、また、この会場は近く改築されるとうかがっているが、その折に、第2回青年平和文化祭の開催を、と提案。ご出席のすべての方々の多幸と長寿を祈り、あいさつを結んだ。」
昭和60年(1985年)9月16日 第1回静岡青年平和文化祭
その後も静岡では「平和行動展」、「教科書展」、「世界の玩具展」など多数の行事を頂いてきた。私自身、設営や役員に就く事はなかったが、何れのイベントにも新来者を連れ出した。対話に結集に奔走し、悲喜交々、報告のために夜この会館を訪れたのは、懐しい思い出であり貴重な財産となった。

2013年、会館移転に伴い旧静岡文化会館(静岡平和会館)は役目を終え更地に戻った。あくまで建物は「物」である。どんなに思い入れていても、古くなれば建て替えたり解体される。だが、「後継を頼む」と師から託された静岡は、師の思いや意思を後継に伝え、自らも「広布模範の静岡」実現に奉ずる決意である。

勤行(方便品自我偈)の後、記念撮影。席上先生は以下4点にわたり指導された。①正法広布の後継を頼む。②今こそ信心修行の労苦を忘れるな。③「身は軽く法は重し」とのご教示を銘記されたい。④社会と職場で勝利者たれ。
翌13日、同じく静文での勤行会席上、池田先生は以下の指導をされた。
「功労者のお見舞いもあって、この地に寄せていただいた。近年、何かとご苦労やご心配をおかけし申しわけなく思っている。
社会は競争であり、複雑で厳しいものだ。だれ人も幸福にしてはくれない。幸福を確立するもしないも自分自身なのである。
結局は御本尊への強い祈りしかない。
信心の目的は一生成仏にあるといってよい。ゆえに信心は強盛でなくてはいけない。人間、弱い心ではつねに縁に紛動され、苦しみ多き人生となる。
私たちは、確固たる信念と強き信心で、一日一日を勝ち取り、充実の人生としたいものである。仏法は境涯を開くためのものである。
動物は境涯を開くことができない。人間のみが境涯を開いていくことができるのである。境涯のいかんによって、その人の人格的価値は決まってしまうものだ。
いま、私たちは、大御本尊を拝し、無二の信心をもって勤行・唱題することによって、はじめて自身の境涯を開き、慈愛もわき、生活の豊かさも、事業等での信頼感もましていくことができるのである。
御本尊に題目を唱えられること自体が幸せなのである。たとえ、どのような境遇にあっても、唱題は人生万般の源泉である。
ゆえに、勤行・唱題を持続していくところに功徳はつまれ、かならずや生活のうえに実証を示していくことができる。これを確信することが信心である。
現在の立場が不遇であるからといって、御本尊を疑ったり、勤行・唱題をおろそかにすれば、功徳が現れないのは当然の理である。」
1980年(昭和55年)5月12日 静岡文化会館(静岡平和会館)
いわゆる「会長勇退」から僅か一年に満たない頃。創価学会会長は第四代北条浩である。マスコミや反逆者等に追われ先生は会合にさえ自由に出席できなかった。後年のそれに比べ、一見素っ気ない、なにか突き放すような「指導」も、不自由な中で会員の身を案じ要点だけを述べたものに違いない。

直後の1980年(昭和55年)6月には55年衆参ダブル選挙、翌昭和56年には月刊ペン事件地裁差し戻し審。学会と池田先生と取り巻く状況依然厳しかった。こうした悪辣な中傷と重苦しい風評に対する反転攻勢が現在に続く「大文化祭運動」となって開花する。閉鎖的な儀式に固執する宗門に付け入る隙を与えぬ文化芸術運動は全国に波及。
五年後の昭和60年(1985年)9月、静岡でも「第1回静岡青年平和文化祭」が開催された。当時の「静岡広布史指導集」にその時の先生の指導が以下の様に記されている。
「名誉会長は文化祭の淵源と由来にふれ、昭和29年、日大グラウンドで「世紀の祭典」が開催されて以来、数々の歴史と伝統を刻みながら、平和と文化をうたいあげる文化祭運動となったことを語った。更に次代を担いゆく青年達に対して、青春時代の行き方に言及。社会の荒波の中で、苦労し、努力し、信念の道を歩み人生を築き上げてきた人達の言葉を引きながら 『人生を要領よく生きる人もいるだろう。 しかし、青春時代には、自分を厳しく鍛え、苦労していくことを忘れてはいけない。青春時代の苦労、鍛えは、人生の原動力を大きく強め、未来の宝となりゆくことを心に刻んでいただきたい。』と望んだ。そして、この日の出演者全員が、2001年に再開して、この会場で記念の集いを、また、この会場は近く改築されるとうかがっているが、その折に、第2回青年平和文化祭の開催を、と提案。ご出席のすべての方々の多幸と長寿を祈り、あいさつを結んだ。」
昭和60年(1985年)9月16日 第1回静岡青年平和文化祭
その後も静岡では「平和行動展」、「教科書展」、「世界の玩具展」など多数の行事を頂いてきた。私自身、設営や役員に就く事はなかったが、何れのイベントにも新来者を連れ出した。対話に結集に奔走し、悲喜交々、報告のために夜この会館を訪れたのは、懐しい思い出であり貴重な財産となった。

2013年、会館移転に伴い旧静岡文化会館(静岡平和会館)は役目を終え更地に戻った。あくまで建物は「物」である。どんなに思い入れていても、古くなれば建て替えたり解体される。だが、「後継を頼む」と師から託された静岡は、師の思いや意思を後継に伝え、自らも「広布模範の静岡」実現に奉ずる決意である。