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地方議員は昔ほどエラくもラクでもない。それこそ私が客商売に従事していた頃は (誰とは言わないが)市長や市議など 田舎のオッサン風情が子分共を引き連れ大威張りの無礼講。今でも古株の中には見るも無残な老いぼれもいるが、世代交代と共に清廉で志の高い若手も増えている。

静岡県議会議員選挙に駿河選挙区から立候補する牧野まさし候補は公明党の新人。比較的若手とはいえ、他党からも若いイケメンが次々乱立する中で、新人の知名度の点で劣勢は否めない。幸い今は情報が瞬時に詳細に飛ぶ。一方で、公約の他にも些細な言動まで、保存され拡散されてしまう。まずはその経歴や公約について聞いてみる。

牧野まさし候補は幼少の頃 父親と死別し母子家庭。小中高は全て駿河区内。当然だがいわゆる落下傘候補には素性の怪しい輩も多いのでこれは重要な事。大学には新聞配達をしながら通ったという。実はこれは私も経験者で どれほど辛いかわかる。私は途中で身体を壊し入院。その後は奨学金を借りて通い続けたがその返済も楽ではなかった。彼はそれを4年間続けたという。恐ろしく屈強な男だ。

こうした若い時代の労苦は、間違いなく無形の財産となり 不動の人物評にもなった。私の場合は人間が擦れただけだったが、彼はそれらの経歴から児童福祉等の諸問題に取り組む決意という。これほど確かなことはない。イヤでもヤラなければならない事を 、彼は若くしてやり遂げてきたのだ。ニートは爪の垢でも煎じて飲め。

今や多少の高学歴など もはや当てにならない。誠実を売りに立候補した新人が、当選した途端に豹変するご時世。だが身体で覚えた人間は、地位を得て偉くなっても心根が変わることはない。もう一つの彼の公約は 「身を切る改革」。どこの自治体も行財政改革は急務だが、当の有権者ほど実感がないため掛け声倒れに終わる事もまた多い。「節約とは高度な消費」とは周恩来の至言だが 貧乏育ちはこれが得意だ。なにより地元支持者の表情を見ていると 彼の人望がわかる気がした。

静岡県議会議員選挙に駿河選挙区から立候補する牧野まさし候補は公明党の新人。比較的若手とはいえ、他党からも若いイケメンが次々乱立する中で、新人の知名度の点で劣勢は否めない。幸い今は情報が瞬時に詳細に飛ぶ。一方で、公約の他にも些細な言動まで、保存され拡散されてしまう。まずはその経歴や公約について聞いてみる。

牧野まさし候補は幼少の頃 父親と死別し母子家庭。小中高は全て駿河区内。当然だがいわゆる落下傘候補には素性の怪しい輩も多いのでこれは重要な事。大学には新聞配達をしながら通ったという。実はこれは私も経験者で どれほど辛いかわかる。私は途中で身体を壊し入院。その後は奨学金を借りて通い続けたがその返済も楽ではなかった。彼はそれを4年間続けたという。恐ろしく屈強な男だ。

こうした若い時代の労苦は、間違いなく無形の財産となり 不動の人物評にもなった。私の場合は人間が擦れただけだったが、彼はそれらの経歴から児童福祉等の諸問題に取り組む決意という。これほど確かなことはない。イヤでもヤラなければならない事を 、彼は若くしてやり遂げてきたのだ。ニートは爪の垢でも煎じて飲め。

今や多少の高学歴など もはや当てにならない。誠実を売りに立候補した新人が、当選した途端に豹変するご時世。だが身体で覚えた人間は、地位を得て偉くなっても心根が変わることはない。もう一つの彼の公約は 「身を切る改革」。どこの自治体も行財政改革は急務だが、当の有権者ほど実感がないため掛け声倒れに終わる事もまた多い。「節約とは高度な消費」とは周恩来の至言だが 貧乏育ちはこれが得意だ。なにより地元支持者の表情を見ていると 彼の人望がわかる気がした。
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県営興津団地の集い「あいあいくらぶ」に地元清水区の盛月ひろみ県議にご参加戴きました。ご承知の通り静岡県は「移住したい県」調査で全国No.2の人気。その理由は福祉に手厚い等。これにウソはなく地元の高齢者が「いそがしい」と溢すほどの充実ぶり。首都圏に近く利便性が良く気候や居住環境も良いともありました。

反面 我々住んでいる者に実感しにくいのは防災以上に深刻な人口減少。特に勤労世代の流出は税収の減少=予算減少に直結する問題。教訓は留めるにしても既に防災減災ばかりを声高に叫ぶ時ではなくなりました。また利便性や環境が比較的両立する反面なにをするにも中途半端な感は拭えません。県という広域は全国との比較しやすく こうした表し易いデータもありますが市政に比べわかりにくい部分もある。実行力よりも地元の名士が成り上がってしまうことも多いのが県政。

それを如実に示すのが旧民主党候補等の混乱振り。中央と地方の立場やその政策の食い違いから生まれる離合集散。おまけに県知事と静岡市長は感情的に仲が悪い等(笑)。予算や人員よりも意思疎通やガバナンスの低下が問題となる中 公明党のネットワーク力に期待が集る処。法律のプロ大口善徳議員や国土交通大臣等との素早い連携が大小数々の難問も解決し実績を上げてこられました。

反面 我々住んでいる者に実感しにくいのは防災以上に深刻な人口減少。特に勤労世代の流出は税収の減少=予算減少に直結する問題。教訓は留めるにしても既に防災減災ばかりを声高に叫ぶ時ではなくなりました。また利便性や環境が比較的両立する反面なにをするにも中途半端な感は拭えません。県という広域は全国との比較しやすく こうした表し易いデータもありますが市政に比べわかりにくい部分もある。実行力よりも地元の名士が成り上がってしまうことも多いのが県政。

それを如実に示すのが旧民主党候補等の混乱振り。中央と地方の立場やその政策の食い違いから生まれる離合集散。おまけに県知事と静岡市長は感情的に仲が悪い等(笑)。予算や人員よりも意思疎通やガバナンスの低下が問題となる中 公明党のネットワーク力に期待が集る処。法律のプロ大口善徳議員や国土交通大臣等との素早い連携が大小数々の難問も解決し実績を上げてこられました。
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拈華山龍津寺(ねんげさんりょうしんじ)は 戦没者の爺様と遺族の婆様が眠る墓所で 子供の頃から寺といえば この龍津寺のことだった。爺様は兵役乙種の県庁職員で徴兵免除だったが 志願兵として戦地に向う途中 東シナ海で戦没。これは多少誇れることらしい。法事も墓参りもほとんど来なかった寺に今回伺うことに。

おじま分福食堂はその龍津寺さんで月一開催される地域の食材を使ったお食事会。公式には謳われてないがもちろん子供が優先。ご相伴に預かるつもりで行ったのだが驚いたことに満席。年寄りばかり目立つ田舎に子供が大勢いるのは寧ろ嬉しい誤算。ふだんスーパーやコンビニの惣菜ばかりになってしまうのは致し方ない。材料から煮炊きするのでは手間も時間も掛るし加工済み食品のほうが安く済むこともある。共働きの多い今の子供が地元の食材に触れるには良い機会だ。

その逆の問題として私が子供の頃は今ほど食生活は過剰に豊かではなかったと思う。食卓を囲むなどといっても箸や茶碗の持ち方に親はうるさく 食べ物を残すことなど許されない。兄弟がいる家は奪い合いもある。躾にうるさい家は配膳や洗い物も手伝わされる。食卓にはある種の緊張感があった。ウチの父は下戸だったが晩酌をする父親は珍しくなく食後はタバコを吸うのも当り前。そんな昔話は行き過ぎとしても大人になって会食などすると子供の頃の躾の度合いがわかる。顔を見合わせ食事をすることで 知らず知らずに庶民のテーブルマナーを覚えるわけだ。

分福とは福を分かち合うという意味だという。これは宗派に関係なく 古来こうした寺社の持つ社会的機能の一つでもある。因みに我が父は生前ミソギと称してこの寺に入門したが 厳しい僧侶の修行に耐えられず僅か数日であきらめて逃げ帰ったという笑い話を残してくれた。強者に厳しく弱者に寛大な姿こそ仏の本懐。人に尽くすことを教える。弱者から毟り取ることばかり執着する宗教団体は見習え。

ご住職が手を合わせ「いただきます」。食事に礼から入るのは日本の伝統。孤食が問題となっている昨今はそんな些細な礼節すら学ぶ機会がない。特に年長者の人間的な質が下がった現代では尚更だ。ご馳走とは客人をもてなすために食材を集めるため駆け回る様を淵源とする。食する側がその労苦に感謝することで相互扶助の関係が生まれる。こんな抹香臭い話でも子供の頃から仕込まれれば 働かずにムダ飯を喰うニートなどならずにすむ。それを教えるのが宗教の役目。

おじま分福食堂はその龍津寺さんで月一開催される地域の食材を使ったお食事会。公式には謳われてないがもちろん子供が優先。ご相伴に預かるつもりで行ったのだが驚いたことに満席。年寄りばかり目立つ田舎に子供が大勢いるのは寧ろ嬉しい誤算。ふだんスーパーやコンビニの惣菜ばかりになってしまうのは致し方ない。材料から煮炊きするのでは手間も時間も掛るし加工済み食品のほうが安く済むこともある。共働きの多い今の子供が地元の食材に触れるには良い機会だ。

その逆の問題として私が子供の頃は今ほど食生活は過剰に豊かではなかったと思う。食卓を囲むなどといっても箸や茶碗の持ち方に親はうるさく 食べ物を残すことなど許されない。兄弟がいる家は奪い合いもある。躾にうるさい家は配膳や洗い物も手伝わされる。食卓にはある種の緊張感があった。ウチの父は下戸だったが晩酌をする父親は珍しくなく食後はタバコを吸うのも当り前。そんな昔話は行き過ぎとしても大人になって会食などすると子供の頃の躾の度合いがわかる。顔を見合わせ食事をすることで 知らず知らずに庶民のテーブルマナーを覚えるわけだ。

分福とは福を分かち合うという意味だという。これは宗派に関係なく 古来こうした寺社の持つ社会的機能の一つでもある。因みに我が父は生前ミソギと称してこの寺に入門したが 厳しい僧侶の修行に耐えられず僅か数日であきらめて逃げ帰ったという笑い話を残してくれた。強者に厳しく弱者に寛大な姿こそ仏の本懐。人に尽くすことを教える。弱者から毟り取ることばかり執着する宗教団体は見習え。

ご住職が手を合わせ「いただきます」。食事に礼から入るのは日本の伝統。孤食が問題となっている昨今はそんな些細な礼節すら学ぶ機会がない。特に年長者の人間的な質が下がった現代では尚更だ。ご馳走とは客人をもてなすために食材を集めるため駆け回る様を淵源とする。食する側がその労苦に感謝することで相互扶助の関係が生まれる。こんな抹香臭い話でも子供の頃から仕込まれれば 働かずにムダ飯を喰うニートなどならずにすむ。それを教えるのが宗教の役目。